2004年9月
9月3日(金)  いたずら or いじわる

指揮者・岩城宏之さんの著書『音の影』(文藝春秋)は、'01年5月から'04年4月まで、『週刊金曜日』に連載していたものがまとめられた本。その軽い語り口が気軽に読めて、この間は電車の中で一人でくすくす笑ってしまった。この本には世界の作曲家のことがアルファベット順に書かれている。その曲にまつわる自身の思い出やエピソードなども語られていて、なかなか面白かった。

その中の”B”の項、ベートーベンのところの「絶対音感」の章では、ベルリン・フィルがフルトヴェングラー(指揮者)にやったいたずらのことや、岩城さんとN響が結託して、ハンス・リヒターハーザー(ピアニスト)に対して仕組んだいたずらのことなどが書かれていた。

ベートーベンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』を練習する時に、岩城さんとN響があらかじめ半音上げてホ長調でスタートしようと、にやにやと打ち合わせしておいた。この曲の導入部はオーケストラが鳴ると、すぐにピアノ独奏のカデンツに入る。そして、そのピアニストは、一瞬ニヤッと笑って、半音高いホ長調で、見事にカデンツを弾き切ったそうだ。オケが提示部のトゥッティに入ったところで、全員が大拍手を送ったという。

逆に陰険なものもあるらしい。某新人指揮者が某日本のオケを初めて指揮した時、コンサートの最初に必ず行われるチューニングの音を、オケ全体で半音上げてチューニングした。つまり、通常イ音でチューニングするところを、変ロ音でやったのだ。その時、その指揮者はそのことに反応せず、以来、その後、この指揮者がそのオケを指揮する時は、楽員たちに相手にされなかったという。かくのごとく、オケの人たちは新人指揮者や奏者に、こうしたテストのようなものをよくやるらしい。

まあ、なんというか。そっか、よくあることなのかあ。
ともあれ、油断をしないミュージシャンにならねばなるまい。


9月11日(土)  時分の花

幸いなことに、ここ1〜2年、自分の歳よりも10歳くらい、あるいは一回り以上歳下のミュージシャンと演奏する機会を多く持っている。こんなお姉さん(オバサンとは言わないでおきましょ)に声をかけてくれるなんて、実にありがたいことだと思っている。

彼らはみなとても若く、ルックスもすてきで、しかも技術も確かで、世渡りの不器用な私と大きく違って、したたかに演奏活動をしている人も多いように感じる。

そしてもっとも自分と違うと感じるのは、それまでに聞いてきた音楽と、それに伴う音楽体験ではないかと思う。

私よりももう一つ世代が上くらい(団塊の世代あたり、おおざっぱに言って現在50歳代くらい)までは、入手しにくかった輸入盤のLPを磨り減るまで必死に聞いて、コピーして、ジャズの勉強をしたと思う。それは日本のジャズの開拓者でもある、秋吉敏子さんや渡辺貞夫さんといった大先輩たちの軌跡をたどれば、痛いほどわかる。そして、特にジャズの世界においては、大物海外ミュージシャンの生演奏を聞いて、ぶったまげて、衝撃を受けて、ジャズを始めた人も多いだろうと想像する。
それはまた、日本でジャズがもっとも時代の最先端の音楽であった頃、すなわちジャズが時代にとって非常にリアリティがあり、若者の生き方や考え方に大きな影響を与えた時代と重なる。

が、現在、主として30歳代のミュージシャンは、もうそれこそありとあらゆる音楽を聞いて育っている。無論、その中で、(抽象的な意味で)何を聞くか、が問題ではあるのだけれど。
彼らにとって、ジャズは通過した一部の音楽体験に過ぎず、即興演奏の方法といったものは、決してジャズのみに依拠していない。あるいは、ほとんどジャズを経ていない人もいる。

矢野顕子さんと結婚した当初の坂本龍一さんが、「この人はバッハでもキース・ジャレットでも、ストーンズでも、みんな同じように聞いている」ことに驚嘆したと、どこかの本に書いていたことを、今でも鮮烈に思い出す。聞き方、自分の感じ方、と異なる人を目の前にすると、そう感じるのはよくわかる気がする。って、どちらかと言えば、私も矢野さんの方の耳に近いかもしれないのだが。

ただ、無論、若さゆえのことは、現場で起きる。彼らの中には、ただひたすらに自分のエネルギーを発散させることに懸命で、ピアニッシモの表現が何を言っているかに耳をそばだてることをせず、音楽全体のバランスを壊している自分自身にまったく気がつかない人もいる。そう感じるのは、概してジャズ・ミュージシャンに多い気はするけれど。
ミュージシャンが楽しくなければお客様も楽しくないはずだ、というような楽観主義的肯定感覚。もっぱら自分を出そうとすることにだけに費やされるエネルギー・ミュージックとしてのジャズ。が、そこに垣間見られる。

そして、いわゆるジャズ・クラブで”ジャズ”を演奏すればいいのだ、というような低い意識で音楽が奏でられている空間には、もはや何の魅力もない。過去のジャズの名演、名曲をなぞるだけの時間は退屈以外のなにものでもない。それでもそれを楽しんでいる聴衆が多くいることも知ってはいるつもりだが。

などということを、演奏しながら感じたり、こうして書いている自分も、おそらく昔はそうだったのだろうと思う。その分、反省はする。が、若いミュージシャンたちをこんな風に感じ、遥けき目で見ている今の自分を、私自身が少し不思議な感覚で見ているのを感じる。

また、久しぶりにジャム・セッションを覗いてみた。ジャズはその曲のメロディーとコード進行さえ知っていれば、初めて会った人でもいっしょに演奏することができるのだから、積極的に欧米的手法を用いたすてきな音楽と言うこともできると思う。上手かろうが、下手かろうが、暗黙の方法やボキャブラリーの中で、そこでいっしょに音楽をやっていること、そのこと自体が大切なのだろうと思う。

そこに、現在小学校5年生だという、小さなドラマーがいた。なかなかどうして、格好よく演奏しているのに感心してしまった。一所懸命4ビートを叩き、少々ずれながらも潔くフィルを入れ、ブラシを使ってバラードをフォローしている。

「時分の花」とは、世阿弥が父親の観阿弥から教え聞かされたことをまとめると同時に、自身の半生を回顧しながら、38歳頃に書いた『風姿花伝(花伝書)』から引用している言葉だ。これはまず「年来稽古条々」から始まっているのだが、そこには申楽能の芸人として一人前になるためには、どのような経過を経るものかが書かれている。

少年の魅力を持っている、というのは、時期的な花にすぎない。(例えば、テレビなどで、幼い姉弟が二人だけで初めてお買い物をする光景が映し出されるのは、もうそれだけでかわいい、というようなことを想像するといいかもしれない。)

世阿弥によれば、少年の日に咲いた「時分の花」は、芸能者としての生涯を決定的にする「まことの花」へと高めていかなければならない、とある。うーん、これが難しい。

そして最後には、「されば、この道を極め終りて見れば、花とて別になきものなり。」などと世阿弥は書いているのだった。ここでこれ以上は書かない。「秘すれば花」、ってかあ。



9月12日(日)  言えない状況と、「言う」人たち

昨日、高校時代の同級生の有志でやっている異業種交流会の第9回目に出席。今回は企画の段階から参加し、卒業以来現役で教師を務めている仲間4人に集まってもらって、初めて座談会を行った。「教育現場の今」を、みんなで話して考えてみようという企画だ。全部で20名ほどの人たちが集まった。

私立幼稚園の園長先生、公立小学校の臨時的任用職員、同じく公立小学校の先生、国立大学付属の中学・高校の先生が、まずそれぞれの立場や経験から感じていることなどを一人ずつ語ってくれた。
その後、参加者から自由な発言や質問が交わされた。全体としては、パネラー4人の意見を中心に話が展開するというよりも、自分が体験したり実感していることなどを息せき切ったように話す、子供を持つ親としての話がほとんどという流れになった。
当初から、例えばこれがいい、こうあるべきだといった、何か結論のようなことを出すことが目的ではなく、今、いろんなことが起きていて、いろんな考えがあることを知り合うだけでも意味がある、といったスタンスでよかったので、ともあれこれでよかった、やってよかったと思っている。

現役教師のみんなの話に共通していたのは、まず、子供たち及びその親の「幼稚化」現象だった。

幼稚園を経営する人は、入園相談よりも教育相談(卒園後も含む)が多くなったと言い、子供の幼少期にはたっぷりと愛情をそそぎ、共通体験を持つことの大切さを語っていた。特にお父さんが遊び方を知らない、とも。
小学校の先生は、「人の話を聞くことができない、皆に言っていることを自分のこととして受け止められない子供たち」のことを話し、別の先生は”ゲーム脳”のことを力説していた。これは、ゲーム中の子供たちの脳波を計測すると、脳が活動していることを示す脳波が急激に低下し、脳の前頭前野部分が働いておらず、それは高齢者の痴呆脳にきわめてよく似ているらしいことを指している。
大学生や大学院生にも教える機会があるという先生は、大学生の幼稚化及び大学院生の社会性の欠如(社会性がないから大学院にいる、とも)、できる子とできない子の二極化が進んでいて、総じて、できる子は親がつめこみ、いじめに走る傾向、できない子は親に放任されている子が多いと話していた。

そして彼女たちが口々に言っていたことの中で、私がもっとも憤ったのは、現場を無視し、制度をどんどん変えていく「行政のしばり」についてだった。彼女たちの話からは、実にがんじがらめになっていて、少なくとも10年先を見越した教育などできない現状があることを、痛いほど感じることができた。

ありのまま、具体的な性教育をやっていた学校は、東京都議会の一議員の過激性教育発言により、その後のマスコミの対応の煽りも受けて、教材はすべて没収され、その授業が一切できなくなった、という話。
問題を起こした生徒を退学処分にしようとしたら、その親は文部科学省の大臣と某国立大学の総長に、弁護士を引き連れて直訴し、復学させたという話。このように保護者がまず教師と相談して問題を解決しようとするでのはなく、直接、教育委員会などに話を持ち込むことが頻繁に起きているらしい。
それに職員会議などで反対意見を言おうものなら、どうやらほんとに飛ばされたり(東京都では、これまで通勤時間は1時間半以内だったのに、2時間以内に広がったとのこと)、脅されたりする現実があるらしい。

かくのごとく、構造的に、ほんとに熱意のある先生や、子供が好きで教育に情熱を持っている先生は、つぶされるか、精神的に病むか、そのどちらかしか道がないくらい、教育現場の状況は逼迫していることを肌身に感じた。

また、私がもっとも驚いたのは、親となった同級生たちのほとんどが、先生を信頼していない、と言い切っていたことだった。無論、中には良い先生もいるとのことで、そういう場合はアタリだった、と言うのだそうだ。かたや、その発言を受けた先生たちは、親を信頼していない、親の顔は見たくない、ミニラの親はゴジラなのだ、と言っていた。
なんなのだっ、この信頼関係が喪失されている現実は。
その間に挟まれている子供たちが、先生とも親とも、さらにそうした先生と親を持つ子供たち同士とも、うまくコミュニケーションが取れないのは、自然の成り行きとしか思えない状況ではないか。子供たちのことを叱る近所のおじいちゃんもいないような地域生活の中で。

そしてもう一つ驚いたことは、どうやら現在の学校では私立公立を問わず、”盗難”が頻繁に起きているらしいことだった。「他人の物を盗んだりしてはいけない」ということを、今、いったい誰が子供たちに教えているのだろうか?あるいは子供たちは何故学んでいないのだろうか?
今日、長崎・佐世保の女児殺人事件の判決が下ったが、”命の尊厳”を子供たちに伝えられていない今の社会は、いったいどうなってしまっているのだろうか。

私は実に暗澹たる気持ちになってしまった。なにか非常にもやもやとしたものが胸の内に残る。

例えば学校で何か事件が起きる。学校は教育委員会に知られることや警察沙汰になることを恐れ、「このことは誰にも言ってはいけない」と教師や子供に強制する。先にも述べたように、職員会議などで自由に自分の意見を言うことができない。A君が悪いことをしたのは明らかなのに、先生はそのA君がいる班(グループ)全体をしかることが多く、「僕は悪くないのに」と帰宅した子供が言っているという現実。

言えない状況。見えない状況。聞かない状況。

それで、帰途に本屋に立ち寄り、『安心のファシズム〜支配されたがる人々〜』(斎藤貴男 著/岩波新書)を買い求め、読み始めた。今年7月に発行されたばかりの本で、現在、この国に住む私たちがどういう状態におかれているかを、生々しく知ることができる。

その本の中には、「(前略)憲法のようには大掛かりな手続きを必要としない領域では、国家が国民の生き方を規定しようとする動きが先行している。最も激しく、露骨なのが教育の分野だ。」とある。
これに続けて、著者は2002年4月から、全国の小中学生に配布された”心のノート”が配布されたことをめぐって、論考を進めている。

無論、1999年8月に施行された「国旗・国家法」により、「かつてない苛烈さで進められている日の丸掲揚・君が代斉唱の強制」についても触れられている。
ある音楽教師が「君が代を弾く40秒間、私はロボットになったつもりでいる。そうでなければやっていられない。」と語っていた事例をあげ、自らを”コンフリクト・フリー”(激しい摩擦が生じてもおかしくない重大な事態が進行しているのに、またそれによって大きな被害を受ける可能性が高いか、実際に受けているにもかかわらず、当事者の内面での葛藤が感じられなくなった状態)に落とし込んでおく方法をとっていると述べている。

「ほとんどレイプと同じ発想で、教職員の人事が動かされるようになってきた。現場の管理職たち自身は意識していなくても、彼らも彼らを指導・監督する立場にある市区町村教委、都道府県教委の職員たちも、文部科学省や強制指向の首長の下で、すでに同質の支配メカニズムを形成してしまっている。権力が生き方の規範を与えようとする思想とシステムは、そして抵抗を試みる者たちをストレス障害に追い込みつつ、多数派の教師たちを自分の頭では何も考えることのできない人間へと変えていく。このままの状況が続くなら、彼らが日々、触れ合っている子供たちも、また。」

こうした現実の中で、現役で教師をやっている友人たちは、私には一人一人がたくましく、きれいに見えた。要するに、みんな、職員会議で手を挙げて、「言う」人たちだったのだ。だから精神科の医者に通った経験がある人も、中にはいることを私は知っている。それぞれ傷ついたり、孤独感を抱きながらも、闘っている友人がいることは、とても励みになる。

そして、私立幼稚園の園長先生が”幼稚園−家庭−地域”のつながりや信頼関係を大切に考えて教育を行っている、と言っていたことが、とても深く胸に残っている。私立である分、国公立よりも、幅のある、自由のきく教育を行うことができるのだろうとは思うが、凛とした彼女の姿勢や芯のある発言には啓発されるところが多かった。
学校、家庭(家族)、地域。これらがうまく機能して、コミュニケーションがとれていた時代は、どうやら過ぎ去ってしまっているらしい。が、だからこそ、大切に考えて、実際にどう生きていくかを考えていくことは、とても重要なことに思える。

臨時職員をやっている先生もまた、はっきりと潔く自分の意見を述べる人だった。臨時というのは、妊娠中の先生や、それこそ鬱病で入院している先生などの替わりに(だから毎年仕事があるそうだ)、1年なり半年なり短期間、クラスを持ったりして教える先生のことだ。その分、ちょっと気楽なところもあるのだろうけれど、悪いことをした子供を叱る彼女の実演には、彼女の温かい人柄がにじみ出ていたと思う。

もう一人の小学校の先生は、毎年必ず東南アジアなどにでかけ、ベトナムやカンボジアといった地域の子供たちへの援助活動を長年続けている人だ。中高当時、陸上部に籍を置き、学年対抗で行われていた体育祭の花形競技であるリレーでは、必ずトップ奏者をつとめ、いつも一番で次の奏者にバトンを渡していたのが彼女だ。小柄な身体ながら、走り続けている(募金を集めるために、毎年、仲間と山中湖一周マラソンをやっている)彼女の大きな笑顔は、きっと子供たちにも希望を与えているに違いない。

私は中高の先生をやっている人の教え子に会ったことがある。なんでも高校を卒業するのに論文を書かなくてはならないらしく、”ジャズ”をテーマに論文を書くことにしたという生徒を連れて、私の演奏しているところに何回か来たことがあるからだ。私でええんかいな、と思わなくもなかったが、それはともあれ、その時の彼女の生徒に対する、実に真摯な姿勢にはひたすら感心した。こんなに真面目に、真っ向から、生徒のことを考え、向き合っていては、さぞかし疲れるだろうと心配にもなったが、それが彼女、なのだ。すばらしい姿勢だと思う。また別の日には、辺境の地で小児科医として仕事をすることを目指しているという、格好いい若者も連れてきたことがある。彼はまっすぐな目をしていた。こういう生徒を育てている彼女を、私はたいしたものだと、しみじみ思ったことをよく憶えている。

ちなみに、母校では、一回も「君が代」を歌った憶えはないし、「仰げば尊し」を歌った憶えもない。当時の校長先生は、先生こそ日々勉強しなければいけない、とよく言っていたように思う。確か”良妻賢母”ということも言っていたと思うが、それはいずれ”母親”になるであろう、女性としての自分自身を自覚しろ、ということだったと解釈している。

私たちが育った学校は、かなり早い時期から帰国子女を受け入れていた私立の女子校でもあるが、一貫教育のもと、全6年間を2年間ずつの区切りで教育を施している。私たちはその制度が敷かれた最初の年に中学に入学したので、ある意味ではその実験的存在第一号と言えるかもしれない。自分で考え、自分の意見を持つ、ということは、ここで学んだことの一つだったように、私は思う。

さて、そして、私はいったい何ができるだろう?

おそらく、今ほど音楽や美術や文学や、実際には何の役にも立たないものが必要とされている時代はないようにも思う。が、今、それだけの”力”があるだろうか。が、私はやり続けなければならない、と思う。


<追記>
上記文章中、”ゲーム脳”について触れていますが、この著書には既に多くの批判があることを知りました。おしらせいただいた方に御礼申し上げます。(2004.9.18)

<追々記>
上記文章中、「まっすぐな性教育」と書いていた部分を「ありのまま、具体的な性教育」と変えました。ここでその詳細を書くことはしませんが、このことを話していた彼女の姿勢が、私にはまっすぐに感じられたのだと思います。従って、私は彼女の話(のみ)からそう感じた、ということであって、現時点で、その批判をしたという議員の発言や新聞記事などを読み合わせ、総合的、客観的に考えて書いた文章ではないことを、あらためてお断りしておきます。この点に関して、ご指摘いただいた方には御礼申し上げます。(2004.9.21)



9月14日(火)  寄席という「場」

久しぶりに寄席に行った。国立演芸場の中席で、前座が始まったのは昼の12時45分。平日の昼間、シルバー席(65歳以上)は1100円で午後のひとときを過ごせるとあってか、ほとんどが高齢者という客層だったが、客席はほぼ埋まっていた。

内容は、講談、模写漫談、落語、漫才、弾き語り(浪曲)、マジックなど、あれこれ。文字通り、寄席鍋の寄席、だ。

前半は身体を張ってやっていた漫才に勢いがあったように感じ、柳家小里ん(こりん)さんが渋く締めくくっていた。

後半のトリは、お目当てだった、人間国宝になった一龍斎貞水さん。(夏になると、テレビなどで四谷怪談などをうらめしや〜とやっているのにお目にかかる。)日本語のカクゼツ、声の張り、合いの手に入れる扇子の音、語りかける力、すばらしかった。

講談をやる人は”先生”と呼ばれるとのこと。落語では”師匠”になるが。なんでも、講談をやっていた人は、いわゆる読み書きができた人で、それができない人のために本を読んで聞かせるというのが始まりだったらしい。だから、今でも講談師の前に机が置かれているのは、実際に本は載っていなくても、その名残りなのだそうだ。

そう考えると、「朗読」というものにはもともと少々啓蒙的なところがあるのかもしれないと思わないでもない。お母さん(何故かお父さんではないなあ)が子供に絵本を読み聞かせるというのも、その範疇に入るかもしれない。
なににせよ、朗読をしようとしている人たちは、こうした講談、落語、あるいは義太夫といった、日本の伝統話芸、語りの芸からも学ぶところが多々あるように、私は常々思っている。

こうした寄席は、実に生き物だ。客とその場をどう作り、自分の芸にひきつけるかが、演者に非常に意識されているように思えた。客席内で飲み食いをしてもよく、会場後方の扉はすべて半開きの状態の場で。(実際、お年寄りが多いためか、みなさん、よくトイレに立たれる。)

この日は某国会議員の後援会と称する群馬県の団体が50名近く、前の方の客席にいたらしく、多分午前中に議員会館にでも行ってきたのだろう。既に聞こし召しているとおぼしき男性たちもいて、最初から勝手にしゃべったりしていて、うるさい。舞台に立った最初の3人くらいは、それぞれのやり方で、この客たちをなだめたり、怒ったりしていた。また、貞水の話芸の明らかに緊張感が増して最高潮と思われる場面で、一人、二人と、ぞろぞろ会場を出て行く。

かくのごとく、最低限のマナーのようなものをわきまえない人間がその場にいるのは、同じ客席にいる人間にとっても甚だ迷惑な存在だ。演者にとっては、実にやりにくい日になっていることを、私は他人事にはとても思えず、半分腹を立てながら見ていたのだった。

また、後半は弾き語りから始まった。これは浪曲師が途中から打ち込みの音楽を流しながら、ブルーズとバラードのコード進行に合わせて、三味線を弾きながら歌うというものだった。浪曲の世界のことはよくわからないが、こんな風にしなければ今の世の中に受け入れられないのであるとすれば、その状況はかなり深刻なものに思えた。

さらに、その浪曲師が、いわゆる冒頭の出に伴う客の掛け声の講釈をやっていた。「待ってました」「よっ」「日本一」などなど。歌舞伎などでは、客席から屋号の声が掛けられたりするタイミングなどはまだ生き残っているようだが、もう浪曲にはその名残りさえないのだろう。私とて、ちゃんと浪曲を聞いたことはないのだが。

歌舞伎や文楽、能楽、あるいは相撲などは、国からのかなりの保護や補助があるように思われるが、こうした落語や講談、浪曲、あるいは長唄などの伝統芸能はどうなっているのだろう?落語家の夫を持つジャズ・ミュージシャンから、落語家の生活はジャズ・ミュージシャンのそれよりひどい、と聞いたことがあるから、おそらく相当たいへんなのだろうと思う。

それにしても、この国立演芸場で夜の公演(18時開演)があるのは、10日間のうち金曜日の夜に一回あるだけのようだ。そんなに客が集まらないのだろうか?ともあれ、これでは最初から相手にしている客層が決まっているようなものだ。同じ半蔵門にある国立劇場では歌舞伎、文楽ともかなりの人が観に来ていたようだが、こうした文化を次に支えるのは、約3年後に60歳を迎える団塊の世代(洋楽、車、ファッションといった、サブカルチャーの担い手だった第一世代でもある)になるのだろうか。



9月19日(日)  他者性の獲得と演劇の可能性
           (再び、子供たちのこと)

今年3月末、横浜市港南区役所及び横浜市芸術文化振興財団(港南区民文化センター・ひまわりの郷)からの依頼で行った、子供ミュージカル(『ドリーム〜未来へのおくりもの〜』)のビデオを見た。
これは、広く横浜市で公募された小学4年生から高校2年生生までの子供たち約50名が、約半年間稽古を積み重ね、本番(一日限り、2公演)に臨むという企画。私が長年関わっているトランクシアターがこの仕事を引き受け、私はその音楽の作・編曲を行い、音楽監督として本番でも演奏した。
このビデオは地元のCATVが編集したもので、半分はメイキング、半分は本番の内容になっている。(この夏に地元では放映された。)

そりゃもう、様々な素人の子供たちが、芝居も、踊りも、音楽もやるのだから、とりいそぎ「先生」と呼ばれる私たちや、さらにそれを支えてくれた裏のスタッフたちはものすごくたいへんだった。子供たちの春休みにあたる本番前一週間は別として、毎週土曜日、稽古のために費やした時間と労力と交通費は、今から考えてもなかなかしびれる仕事量だったと思う。私はそう頻繁には稽古に顔を出さなかったが、稽古を終えて近くのファミレスで何杯もコーヒーをおかわりしながら、ああでもない、こうしたほうがいい、と喧喧諤諤とやったものだった。

正直言って、ちょいと感動した。子供たちの笑顔は唯一無二。
別に美談にする所存は毛頭ないが、でも苦労した分、これはやってよかったと心底思った。そしてこれは他の所でもできる、やりたい、と思った。

子供たちと関わるには、おそろしく時間と手間、そして愛情がかかる。特にこうしたミュージカルには、子供たちにとっては習得しなければならないことが山ほどある。それを一つ一つ消化して、なんとか本番までに間に合うように段取りを組んで稽古をしていくわけだけれど、そのプロセスが如何に大切だったか、そうした時間がどれほど貴重なものだったか。

大勢の人たちと、同じ時間、同じ場所で、自分の役割を認識しながら、一つのミュージカルを創らなければならないという状況は、ちょっとした社会の縮図のようになっているところがある。
私たちの指導を受けながらも、大きいお姉さんが小さい女の子の面倒を見るような雰囲気が、やがて自然にできてくる。あの子にはいっぱいセリフがあるのに、どうして僕はこれぽっちなの?(無論、台本と配役には、最大限の配慮と苦渋の決断がなされている)、という状況に立った時、自分はどう在ればいいのかを自分で判断して納得しなければならない、などなど。
それこそ、一人一人の胸の内にはいろんな想いがあっただろう。そしてそれは学校でも、塾でも、スイミングスクールでも、家庭や近所付き合いの関係からも、もしかしたら学べなかったことかもしれない。
そういう意味で、小学生から高校生まで、という枠組みは、あらかじめ仕組まれたものであるにせよ、非常に意味があったと思う。

そして私は”演劇の可能性”を感じた。
音楽の場合は声や楽器でコミュニケーションを図るので、どうしても多少の技術が必要になる部分がある。その分、最終的には合奏や合唱をやることになっていても、個人の力に負うところが、演劇よりは幾分重いように思われる。それに音を出すという行為は、それだけで抽象化されている。
それに比べて、演劇の場合はセリフの言い回しが上手かろうが下手かろうが、ちょっと動きがどん臭かろうが、とにかく言葉を発し、身体を動かさなければならない。さらに重要なのは、常に他者との関係を(言葉や身体で)具体的に図りながら、自分の役割を演じなければならないということだろうと思う。それはあらかじめ台本に書かれていることではあっても、セリフを憶え、対話をしたり、相手との距離を図ったり、立ち位置や動き方や出はけを憶えたりする行為には、常に具体的な他者との関わりが伴う。つまり、子供たちが他者を発見し、理解しようとし、自分をみつめる時間と場を、演劇は与える力を持っているように感じたのだ。

具体的な他者との関わり。他人とのコミュニケーション。おそらく、このことが今の子供たちにもっとも欠けていること、あるいは子供たちがどうしたらいいのかわからなくなっていることだろうと思う。口を大きく開けてはっきりしゃべりなさい、大きな声を出しなさい、それじゃ伝わらないよ、こうした言葉が稽古中にどれほど叫ばれたことか。
なにせ先生と親の間には信頼関係が成り立っていないらしいのだから、何をか言わんや。さらに、どうも学校に行っている間の子供は”人質”に取られているようなものだ、と言う親もいるらしい。学校は犯罪を犯しているのか?こんな風に言われた学校関係者に、痛みをおぼえる先生がいるかもしれないことを想像する力さえ、大人は失ってしまっているのか?

悲しいことに、私には子供はいない。きっと多くの親は私に言うだろう。所詮親にならなければわからない、現実を知らない、と。なんとでも言ってくれーい。でも一言だけ。他者を排斥する態度、対話を持とうとしない精神は、実に哀しく貧しい人生を保障するだけだ。



9月16日(木)  耳を強奪される

たまたまラジオから聞こえてきた音楽に、耳を奪われた。それで急いでCD屋に行って、いつものお姉さんに探してもらった。
この超有名な曲は、これまで歯医者や眼医者の待合室や、ちょっと気のきいた喫茶店などで、なんとなく聞き過ごしていただけだった。が、私にはとても新鮮に響いた。クラシック音楽を聞いていて、グレン・グールドの演奏に次ぐ衝撃のようなものだった。

それは、ヴィヴァルディ作曲『四季』。演奏は、イタリアのヴァイオリニスト、ファビオ・ビオンディが演奏及び指揮しているエウローパ・ガランテ。

古楽あるいは古楽器への関心が流行り始めてから、既に時はだいぶ経つのだろうと思う。ビオンディにしても多くの人に認知されたのは'90年代初めのことらしいから、今頃になって私がこんなことを言うのは、実におそまきながら、という感じではあるとは思う。が、仕方ない。今、出会ってしまったのだから。

面白いことに、そのヴァイオリンの歌い方、奏法に、私は太田惠資(vl)さんを感じてしまった。そして、ビオンディが演奏する『四季』は、実に生き生きと、豊かに歌をうたい、各曲ごとに異なる表情にあふれ、自由で開放的な印象を私に与えた。
ありゃりゃあ、ヴァイオリンが一番たいへんだけれど、今度はヴィヴァ・プロ(ヴィヴァルディ・プロジェクト)、ってか?冗談、冗談。

ついでに、ピアノとはまったく異なる構造からできているチェンバロ(にもいろいろあるが)を弾きたくなった。うーん、勉強してみたい。



9月21日(火)  変化した関係

両国・シアターカイに、高瀬アキ(p)さんと多和田葉子(朗読)さんの公演『ピアノのかもめ/声のかもめ PART2』を観に行く。
2001年9月に、ゲストに島田雅彦氏を迎えて行われた同題名のPART1、及び去年の『プレ・BRECHT』にも行っているので、この二人の公演を観るのは今回で3回目になる。

これまでともっとも異なっているように感じられたのは、多和田さんの文章の読み方と、相棒であるアキさんの存在への意識の仕方だったように思う。その読み方はかなりゆっくりとしたテンポになっていて、逆に昔の読み方が懐かしくもなったりして。そして立ち位置が近くても遠くても、以前より確実に相手を意識している多和田さんが舞台に立っていたように思う。



9月24日(金)  抵抗できるか?

ここのところ、香山リカの著作を読み進めている。『ぷちナショナリズム症候群 若者たちのニッポン主義』(中公新書ラクレ)、『<私>の愛国心』(ちくま新書)。ほぼ同世代である彼女の、精神科医の視野に立った分析は、今ひとつ現実への切り込みの鋭さに欠ける感じを受けるものの、なかなか示唆に富んでいて啓発される部分も少なくない。

特に若い人たちの視線が自分の内側にしか向かわない、という傾向が近年凄まじい勢いで芽生え始めていることについて、例えば以前の診察室では「あなたと同じような悩みの人、病を抱える人は大勢いますよ」といった声がけは、相談に来た人をとりあえず安堵させるのに有効だったが、今はまったく機能しないと書いてあったのには、少々ショックだった。「世の中にはあなたより恵まれていないい人がたくさんいる」とか「あなたの存在で救われている人もこんなにいる」といった、相対化、社会化を行う中で、苦しみを減衰させる試みは、まったく通用しなくなった由。

「君たちはいかに生きるべきか」、「二十歳の原点」、加藤諦三、小田実、吉本隆明、高橋和己などなどを読んでいた自分。近代文学、現代詩に出会った自分。本を読むことに限らず、私を突き動かしていたのは、なんだこりゃ、と感じたり、それまで見たり聞いたりしたこともなかった”世界”にぶち当たった時だったと思う。そうした青春時代を振り返るに、さらに今でもなお、自分と他者(あるいは社会)との距離感を測る時、少なくとも私には有効だった(である)方法が、現代では通じないという事実には、少々愕然とした。

また、別の一節。おおざっぱに言えば、この国で進行するナショナリズムに対抗することを期待できるのは、「努力した割には幸福になれず、いつも”なぜ?”と自問しているキャリア女性」かも、とも。思わず、苦笑。



9月26日(日)  強靭な想像力

東京・弥生美術館に『石原豪人(ごうじん)展』を観に行く。石原豪人は昭和30年(1955年)頃から挿絵画家として活動を始めた人で、昭和30〜40年代は少年雑誌の「大図解」などで活躍した。怪奇現象、怪獣、未来世界、幽霊など、虚構の世界をリアルな筆遣いで描き、昭和50年代くらいからは別名でポルノ系の雑誌に挿絵を描いた。「怪奇」と「エロス」を描いたイラストレーター。平成10年に75歳で亡くなった。

昭和40年代といえば、”怪獣”がブームになり、「ウルトラQ」(昭和41年)やその後の「ウルトラマン」を、私もテレビで毎回見ていた。白黒画像の「ウルトラQ」の始まりだけでも、いわゆる怖いもの見たさも手伝って、幼い心の想像力をいたく刺激したものだ。また、夜眠れなくなると知りつつも、楳図かずおなどの「猫女」のような怖〜い漫画を読むのも忘れなかった。

石原が描く世界は、そうした幼い頃の記憶を呼び起こすと同時に、今の時代がいかにそこから遠いところに来ているかを感じさせた。しかしながら、特にその原画の迫力は見た者を引き付ける力を持っていて、その筆の運びのひとつひとつに、描く者の強靭な想像力を感じた。

また、なんでも、石原は小学生の頃から死ぬまでずーっと、夏目漱石の『坊っちゃん』は「ヘンだ、おかしいところがある」と思い、「あの小説には矛盾が多いが、登場人物が全員ホモだと解釈すればその矛盾がすべて解決する」という自説の持ち主だったそうだ。うんむ、どういうことか、読んでみないとわからない。

それにしても、『石原豪人』(中村圭子 編/河出書房新社)の中程に掲載されている、自宅の居間で撮られた、怪人に扮した豪人とその子供の写真は、実に微笑ましい。こんな父親のもとで育った息子はどんな大人になったのだろう。って、実は彼は私の大学時代の友人なり。



9月29日(水)  久々に、我を忘る

谷川賢作(p)さんが企画した『ピアノ三昧 vol.1』で演奏。一晩に5人のピアニストのソロ演奏を聞くというコンサートで、一人の持ち時間は20分。演奏の順番は厳正なるあみだくじで、本番の約一時間半前くらいに決まった。なんだかピアノの発表会みたいだね、などと笑いながら、ちょっぴり緊張感を抱きつつも、普段同じ現場に居合わせる機会がほとんどない同業者たちと談笑する時間は、新鮮で楽しかった。それにそれぞれ勝手に練習したりしたので、他の人が演奏しているのを聞いているのは、いやあ、なかなか得難い幸福感のようなものすら感じられた。みんな、すばらしい。声をかけてくれた谷川さんに、心から感謝。

クラシック音楽のコンサートと違って、あらかじめ誰が何を演奏するかは誰も知らないから、少なくとも私にとっては、この演奏順は大きな意味を持っていた。なんとな〜く、出だしはこの方法でいこうかなあとか、もしかしたらこの曲をやりたくなるかもしれないなあ、くらいの心積もりはしておいたものの、あとはそれまでの流れや特に私の前の人がどんな演奏をするかによって、自分の演奏は自然に決まるのだろうと、甚だふらふらした感じで臨んでいた。

私は四番目の出番だったが、それまでの演奏者はきっちり、しっかり演奏している。私の前に演奏した人は、自宅で時間を測ってきたと言う。い、い、いかん、私はなんていい加減なんだ、20分もつだろうか、と少々焦ってくる。が、じたばたしても始まらない。

久々に少々我を忘れた演奏をしたと思う。どうもここのところ、これまでとちょっと違う地平に立って演奏しているような気がする。その自分を半分肯定的に、半分批判的に眺めている自分がいる。しかし、こりゃ、満月(正確に言うと満月の一日後)のせいか。





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