3月
3月1日(火)  記憶の風景と音楽 (思い出話、入ってます)

深夜、よくあるボックス・セットになっているCDの宣伝番組を見てしまった。画面には白黒映像のニュース画像が次々と映し出されている。'60年代安保闘争、学生と機動隊の衝突。火炎瓶、竹槍、ヘルメット、ビラ。新宿西口広場で肩を組んで歌う人々。'70年代に入ってからの三里塚闘争。ベトナム戦争。カラー映像の三島由紀夫が自衛隊で演説している姿、などなど。

そしてそこに流れていた歌たちは、ほとんど口ずさめるものだった。非常に感傷的になっている自分を見る。

ぽわぽわぽわーーーん (異次元空間へいざなう効果音)

小学校6年生の時に買ってもらった、小さなギター。その時鳴らした6弦の響きは、今でも忘れられない。何回も何回もAmのコードの響きを確かめた耳。誰もが最初にやりそうな「禁じられた遊び」。

いわゆる日本のフォーク・ソングは、これまで知らなかった世界を私に見せてくれた。

メッセージ・ソング、四畳半フォークなどと言われていたが、いずれも、その当時の私の環境からは遠い世界の歌だった。にもかかわらず、自分の心にずかずか入ってきてしまった。別に知らなくてもよかっただろうに、ひっかかってしまったのだから仕様がない。この”ひっかかりかた”は、ジャズと出会った時と似ている。

自分のお小遣いで買った初めてのシングル盤は、赤い鳥の「忘れていた朝」か、上条恒彦と六文銭の「出発(たびだち)の歌」だったと思う。何かの賞を獲った「出発の歌」は、なんだか元気が出て、胸がわくわくして、よく大声で歌っていたように思う。
LP盤は吉田拓郎か五輪真弓だっただろうか。友人たちから誕生祝に赤い鳥のLPをもらったことは憶えている。

中学校の頃、蒲団をかぶって、音が洩れないように聞いていた、ラジオの深夜放送。泉谷しげるはなんだか暴力的だったが、私の周りには決していなかったタイプで、大人の社会を垣間見るような思いを抱いた。フォークソングは少しずつニュー・ミュージックという言葉に置き換えられて行った時代だったが、当時は洋楽のブラス・ロックも流行っていて、これがやたら格好よく聞こえた。

初めて行ったコンサートは吉田拓郎。神田共立講堂だったと思う。「結婚しようよ」でヒットを飛ばしていた拓郎は、既にバッシングを受けていて、客席からトイレットペーパーが投げられていた光景をよく憶えている。
ちなみに、初めて門限を破ったのは、このコンサートだった。中学2年生の時だったと思う。よしゃいいのに、そのお姿を一目見ようと、拓郎たちが出てくるのを楽屋口で待っていたのだった。車はさっと走り過ぎて行き、全〜然見えなかったけれど。
さらに、ちなみに、拓郎が最初に結婚したのは、私が中学3年生の時。六文銭で紅一点だったオケイと結婚したのだが、私は教室で悲しくて泣いた。下敷きを眺めながら。って、当時は下敷きとして使っていたものに、みんな雑誌の切り抜きなどを挟んで入れていたのだが、私のには無論拓郎が入っていたのだった。

その頃、ステレオで聞いた冨田勲のシンセサイザーによる、ホルスト作曲「惑星」。これにはたまげた。音があちこちから聞こえてきて、ほんとにびっくらこいた。それでシンセにも興味を持って、深町純なんていう人のLPも買ったりしていた。

当時のシンセは、一つ一つの穴に一個一個シールドをかまして、音を設定する。鍵盤をいくつ押しても一個の音しか出ない。モノの、アナログ・シンセだ。
って、コルグのアナログ・シンセも持っている。大学時代の友人からもらったものだが、当時は汽車の音やロケットの発射音などを楽しんでいただけだった。

このシンセという楽器も、私に新しい世界を見せてくれた。大学に入ってから知った、いわゆるプログレ(プログレッシヴ・ロック)に、その線を延ばすことができる。

大学の頃には、クロスオーバー、のちのフュージョンが全盛だった。りー・リトナーの軽さがなんとなく好きだった。カシオペアが出てきたのもこの頃。そうだ、ネイティヴ・サンを田園コロシアムに聞きに行ったこともある。

既に、キース・ジャレットは「ケルン・コンサート」、チック・コリアは「リターン・トゥ・フォーエヴァー」、ハービー・ハンコックは「ヘッド・ハンターズ」を出していて、で、こういう人たちはどうやら”ジャズ”という音楽をやっていたらしい、ということを知るに及び、ほ〜んの少しだけ過去に遡ってみたり。

ともあれ、コリアの影響で、どーしても欲しくなってお金を貯めて、ローズ(ステージ)を買った。生まれた家でちょっとボヤを出して、少し焦げた跡が残っているけれど。

ぽわぽわぽわーーーん (もとい)

学生と機動隊が激しくぶつかり合う映像で聞こえてきたのは、加川良の「教訓」。「命はひとつ、人生は一回、だから、命を捨てないようにね」「あわてると、つい、ふらふらと、お国のためなのと、言われるとね」「青くなって、しりごみなさい、逃げなさい、隠れなさい」

ベトナム戦争で負傷した兵隊あるいは死んでしまった兵隊の姿がリアルに映し出されている映像の向こうで流れていたのは、井上陽水の「傘がない」。都会で自殺する若者が増えようが、テレビの向こうで論議している国会議員がいようが、「だけども、問題は今日の雨、傘がない」そして「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」

その事実としてあった時代の映像と、歌の内容の距離感があまりにも絶妙で、これにまんまとひっかかった。つまり、このボックス・セットを注文してしまった。


3月2日(水)  ひこうき雲

確定申告を終え、税務署をあとにして、ちと晴れ晴れとした気分で、図書館とCD屋に行く。

図書館の児童図書の「おんがく」コーナーにしばし佇む。面白い。手作り楽器の本など、けっこう出ていることを知る。マリー・シェーファーが書いた、子供向けのワークショップのような本があって、それを借りようと別に置いておいたら、どうやらこれを目当てにやってきたらしい男子学生風の人に持っていかれてしまった。

CD屋ではバッハなどを購入。つい何日か前にもピアノ三重奏曲などを買い込んだから、今、机の上には新しく手に入れたCDが20枚近くある。なんでこういうことになっておるのやら。

初めて買ったベルリオーズの「幻想交響曲」(佐渡裕指揮、パリ管弦楽団)は、実にドラマティックだった。とても丁寧な音楽づくりをしているように感じた。独特の柔らかさと深さを感じる。実況録音盤なので、時々指揮者の唸り声も入っている、のがいい。最後の会場の歓声と拍手がたまらない。

見上げた夕空に、ひこうき雲。
ところで、ひこうき雲、というのは、何のためにあるのだろう?


3月3日(木)  タケミツのうた

  鼻歌をうたいながら、坂道を登ってきた
  あっ、火星人だ、と思った瞬間
  目と目が合った
  すれ違う風

東京・渋谷の宮益坂で、一度だけ至近遭遇したことがある。

  今、ジョン・ケージさんはホテルで寝ているそうです
  まもなくやってくると思います

たしか、ダンボールを使った曲で、作曲家の紹介をしようとしたら、そこに作曲家がいなかった。
のを、笑いながら説明していた。
やがて作務衣を着た、飄々としたケージがやってきた。
コンサート、東京ミュージック・ジョイでのことだったと思う。

先週、NHK・TVで歌っていた伊藤君子(vo)さんが、新しいCDに初めて日本語の歌を入れたという。その曲が、武満徹作曲の「MI-YO-TA」だった。その葬儀の際に黛敏郎が口ずさんだという、このごくシンプルな歌は、武満が亡くなった時の追悼番組か何かで、確か小室等さんが歌っていたような記憶が残っている。

タケミツのうた、といえば、石川セリが作ったアルバムが有名だが、そんなこんなで、普段は決して買わない値段のCDを買ってしまった。
その伊藤君子さんの新しいCD。ジャケットに金色を使っている豪華版で、小曽根真さんが編曲、プロデュースを担当、丁寧なアルバム作りをしている。
それと、ドミニク・ヴィス(カウンター・テナー)のCD「武満徹を歌う」。日本語で歌っている曲も数曲収録されていて、今回の録音にあたって、フランス生まれの彼は相当日本語の特訓をしたらしい。なんとなく不思議な雰囲気を醸し出している。

こうして聞いてみると、タケミツのうたは基本的にとてもシンプルだ。そして、フラット三度の音(いわゆるブルー・ノート)が微妙な雰囲気を出している。さらに「胸の振り子」が好きだと言っていたことが、妙に響く。武満がジャズやいわゆるポップスも好んで聞いたりしていたことはつとに有名な話だけれど。

そんなこんなで、もろもろの用事もあり、某楽器店に2時間近くもいて悩んだ挙句、『武満徹:SONGS』(日本ショット)を買ってしまった。えーいっ、今日は雛祭りだーい。

武満の声。

  うたは千差万別のほうがいい
  歌う時くらいは、みんな違ったほうがいい

卒業式で「君が代」を起立して歌わなかったという理由で、その職を追われる人間がたくさんいる現在の時代を、天国の武満徹はどう思っているだろうか。


3月4日(金)  −記憶する−を観に行く

飯田橋・アルテリアで開かれている、林里美さんの個展に行く。林さんは私が趣味でやっているシルクスクリーン(版画)教室の先生だ。現在はほとんど出席できていないが。'73年生まれ。

かなりねじれている。というのが第一印象。否、こんな言い方はよくない。一見、軽く、透明感さえ感じさせるような作品たちの裏側に、彼女の”相手を選ぶ”目と、幾重にもひねられた方法が使われている、という感じだろうか。同じ、か。

つまり、これらの作品から私が感じたものは、作品そのものに心が震えるといったような、無名性をも伴うであろう、作品の自立性に基づいたものではなかった。そのかわりに私に聞こえてきたのは、「他人と真にとつながりたい」という彼女の強い声だった。

アクリル版に刻まれた、反転した読みにくい文字。凸版で刻印された、これまた読みにくい文字。は、これを見る人を一旦拒絶しているように感じられた。というより、作品が受け手を選んでいる。無論、それは彼女によって仕掛けられた罠、あるいは第一関門のようなものだ。

作品を手に取り、ひっくり返して眺めたり、袋から取り出して一所懸命見ようとしなければ、私たちは文字を読むことはできない。すなわち、受けて側の能動的な行動がなくては、完璧な作品の受容(少なくとも彼女が思い描いているであろうコミュニケーション)が成就されない仕組みになっている。もちろん、どんな風に見ようが、見る方の勝手だが。

が、この作家はそれこそを望んでいる。今回の個展では、作品の自立性よりも、そのコミュニケーションこそを問題にしている彼女の姿勢が感じられた。もう少し言えば、そこに自身と作品の存在意義を見出そうとしているように。

この感覚はどこかで味わったことがあると、作品に囲まれながら反芻していると、寺山修司という名前が浮かんだ。『観客席』で、観客として座っていた私を不愉快にし、脅かし、”問題”を提起した、あの観客を”挑発”する芝居の感覚だ。彼女の作品全体の色調は淡く、その肌触りはなんとなく、例えば安部公房を思い起こさせるところがあり、寺山のような色彩感ではなかったけれど。聞けば、以前演劇に関わっていたことがあると、本人は言う。少し合点がいった。

そして、そのために用いられた方法の一つでもあるのが「言葉」あるいは「文字」の存在だ。私には、この表現方法は多くの問題を含んでいるように感じられた。

言葉も文字も”意味”を持つからだ。今回の作品はほとんどが日本語だった。人によって受け取り方は異なるけれど、日本語を知っている人には、作品に刻まれた文字は具体的な意味や内容を受け手に伝える。そのコミュニケーションの手段としては、わけのわからない美術作品を見たり、抽象的な音楽を聞くよりも、ある意味、伝わりやすい性格を持っているかもしれない。(って、ほんと?)

彼女は言葉や文字を使うことで、何を伝えたかったのだろう?「私はこれを記憶したのよ」(正確には記録、あるいはモノローグな日記、と私は思うが)ということを作品にして他者に伝えようとすることに、どういう意味があるのだろう?

どんな方法を使おうとも、表現者の気持ちは変わらないだろう。これが私なのだ、これが私の表現なのだ、で話は終わる。
が、言葉を用いることとそうでないこととでは、他者への伝わり方は明らかに違う。ということに対して、作り手にその方法論がきちんと意識されているかどうかは、重要なポイントだと思う。文字と言葉の差異について、素材としての文字の”形”や、そこに必ずついてまわる意味・無意味について、あるいは作品に”文学”を持ち込むことに対して、彼女はどれくらい明確に意識しているのだろうか?

これは音楽における、器楽演奏と歌との違いに似ているところがあるかもしれない。
少なくとも、私の場合、歌あるいは言葉を用いる時は、言葉を音楽の素材としては考えていない。また、歌手と音楽を創る場合も、そんな風には決して考えていない。”声”はその人自身であり、素材ではないからだ。

さらに、彼女にとってもっとも大切なことらしいコミュニケーションということで言えば、作品の作成段階においても、”相手選び”が行われていることが、チラシを読むとわかる。

また、これまで発表された作品に、アクリル版が用いられたり、受け手の視線を一旦さえぎるような薄いベールが覆われているものがあるのを見ると、もしかしたら彼女は実はそういう人との関わりを望んでいるのかもしれない、とさえ思う。
見方を変えれば、息苦しいほどの人間関係や、圧倒的な何かや暴力的とも思えるほどの圧迫感を伴うような”接近”を、つまり自分を脅かすような他者あるいは他事からの”ベクトル”を、彼女は多分あまり好きではなく、自分で自身を上手に守っているような気がする。

というのは、かなり深読みのし過ぎかもしれない。普段、ソロで演奏する以外は、たいていは誰か他者と演奏し、聞いているお客様もいる、というような、それこそ様々な関係や想いが錯綜する環境(演劇に関わると、さらに複雑になる)で、醜い自分をさらしながら演奏行為をしている私と、基本的にはたった一人で平面に向かって作り上げていく作業を黙々と続ける行為は、自ずと異なっていて当然だろうと思うし。

実際、もっと作品に沿って考えるべきだろうとも思う。単純に、ストレートな表現を好まない、見えたり見えなかったり、見辛かったり、覗くような気分にさせたり、といったことを、作品に持ち込もうとしているだけかもしれない。

最後に、「記憶する」について。これはこの個展に名付けられている題名だ。

記憶する、という能動態の動詞は、相当意識的な作業だ。きわめて個人的なできごとで、他者とは決して共有できない。ましてや、他者に強要できるものでもない。そして、それは他人の心を震えさせることとは別のことで、言ってみれば創り手の前提のようなものではないだろうか。

思えば、人間なんて記憶のゴミ箱みたいなものかもしれない。しかもそのゴミ箱は底に穴が開いているから、畢竟、何もない。
何かものを創るということに携わっている人間は、おそらく、その底のないゴミ箱に始終手を突っ込んでは、ああでもないこうでもないと闘いながら、きわめて個人的なことを外に向かって解き放っているようなものだろう。そして、続ける意思がある限り、死ぬまでその作業を続けるのだろう。

「記憶したものは何になるのだろう。」とは、チラシの最後に書かれている文章だが、それを彼女は見つけたのだろうか。

余談。

林さんにとっては、その小さい頃の記憶として、家にあった医学関係の書籍を絵本と同じように眺めていた、というものがあるらしい。チラシにはそう書いてあった。そこに書かれていた人体に関する記述やイラストは、幼い心に様々な印象を残したようだ。

をを、私の記憶とずいぶん違う。私の祖父の病院にあったのは、不気味に光るメスだったり、注射器だったり。血に染まったガーゼと真っ白な包帯だったり。幼少の頃、祖父が盲腸の手術をしてくれたのだが、棚の上にはホルマリン漬けになった自分の盲腸があった。他にも、誰かの内臓が浮いているケースがたくさん並んでいた。それに昔は骨などを地中に埋めていたらしいから、土にまみれた黄色っぽくなった骨も見たこともある。肉体とは実に生々しいものだ。

そんな祖父はカリフラワーが大嫌いだった。ブロッコリーはまだ許せたらしい。似ている、からだ。ちなみに、注射をされるのも大嫌いだった。


3月6日(日)  ヘンな声

「ぼくの好きな先生〜 ぼくの好きなおじさ〜ん」
初めてラジオで聞いた時、ヘンな声だなあ、と感じたことをよく憶えている。

TVに出ていた忌野清志郎を見た。やっぱりヘンな声だった。そしてものすごくすてきだ。歌を他者にちゃんと届けている。言葉の飛ばし方、歌のフレーズの終わり方、声の伸ばし方などに、そんなことを感じる。しびれた。

最初の2曲は、現在若者に人気があって売れているらしい人たちとの共演だったが、清志郎のほうが圧倒的だった。無論、彼らにとっては他人の歌ということもあるのだろうけれど、それにしても、去勢されているかのような印象さえ受けた。なんだか知らないけれど、生きてない、輝きや力を感じない。仲井戸麗一との共演は心温まるもので、音楽を感じたけれど。

永遠の不良青年に乾杯。


3月8日(火)  音楽に順位、はあるか?

会場周辺にたどり着くと、なにやら騒々しく、おまけに「えいえいやーっ」に近いエールが聞こえてきた。入り口付近では円陣なんぞを組んでいる学生服を着た女子学生たちもいる。なにごとぞや。

姪が通っている中学校のミュージック・フェスティバルというものを聞きに行く。といっても、内容は合唱。1年生から3年生までのクラス対抗で、聞くところによると、先生は一切関与せず、アドヴァイスもほとんどせず、生徒たちだけで曲、それに指揮者やピアノ伴奏をする人を選んで、朝、昼、放課後と練習したそうだ。えらいっ!

1学年7クラス×3学年、約2時間余、座りっぱなしで合唱を聞き続けた。
きれいにハーモニーが揃っている、リズムがしっかりしている、力がちょっと入り過ぎている指揮者、音をちょっとはずした伴奏者、全体がまとまっている、といった、技術的な側面で言おうとすればいくらでも言うことはあるだろう。
また、アカペラで始まるとか、強弱が面白いといった曲の構成や、その歌詞の内容にみんなが共感できて歌えているかといった、そもそもの選曲のことに視点を向けることもできるだろう。
あるいは、やる気満々か、あんまりやる気がなさそうだ、といった取り組み方や姿勢を、素直に感じればいいところもあるだろう。

「みんなに金賞」と先生は言いながら、最後には学年賞と金・銀・銅の各賞が優秀だったクラスに授与された。受賞した生徒の中には、泣いている人もたくさんいたようだ。
どうやら生徒会が主催しているらしいので、その賞の授与は生徒から手渡されたが、生徒が審査しているわけではないだろう。では、いったい誰が審査しているのだ?それは知らされることなく、皆目わからないけれど。何が良かったのか、どこのクラスが僅差だったのか、といった論評やコメントも何もなかったけれど。何故?

世の中には音楽に関するコンテストやコンクールは山ほどある。
機会あって、高校生以下のブラスバンドなどにも関わったことはあるが、もうほとんど体育会系のノリだ。実際、演奏するには体力は要るし、技術の訓練をしなければならないから、その要素があることはわかる。
が、1分1秒を争う、1センチ1ミリを競うような、世界選手権かオリンピックにでも出そうな勢いの、トロフィーだけを目指して音楽をやっているような雰囲気。カチンコチンの先生(学校や自分の名誉のため、も含まれている)の指導や、規律や縛りにがんじがらめになっている、覇気のない生徒の姿とその音に触れた時、ああ、ここには音楽はないなあ、と感じたものだ。

一等賞を取るというのは、実際具体的な目標にはなるだろう。でも、音楽には優劣はないと考える私には、やはり賞を設けることによる弊害の方が大きいように思う。音楽をだめにする。

もし私が音楽の教師だったら、音楽に優劣はつけられないことを明確に意思表示するだろう。そしてもし賞の授与に近いようなことをするとするならば、「もう一度聞きたい曲」を、来た人全員に一学年に1票ずつ投じてもらうような方法を取るだろう。一学年ごとの発表で小休憩を入れて。裏方は少々たいへんになるが。また某国営放送の”みんなのリクエスト”みたいだけれど。

私がもっとも驚いたのは、舞台に整列して歌い始める前、指揮者の指示の元、全員がダッと音を立てて一斉に足を肩幅に広げた時のことだった。まるで軍隊のように感じられた。私が在学中の時も合唱の発表はあったような気がするけれど、あんなことはなかったような気がする。

それに、NHKの合唱コンクールなどをテレビで見ていても常に感じることだけれど、歌をうたっているというのに、何故全員が棒立ちなのだろう?どうして身体が動かないのだろう?言葉に自分の気持ちを乗せて、顔じゅうぐちゃぐちゃになる歌手や、身体がくねくねよじれたりするヴォイス・パフォーマーをいっぱい見ているから、余計に不自然に感じられてならない。

もし私が何かの曲の編曲を頼まれたら、普通の中学生の訓練されていない声では音域的に困難な調を移調し直し、何か楽器ができる人がいたらやってもらい、いや、全員が口でパーカッションをやったっていい、ヴォイスも使って、そして舞台上の生徒の配置も変え、少しは動いたり、動きもつけたりして、もっと表現豊かで生き生きとした歌を、何かもっと面白い音楽を創ることを試みるだろう。
もっともそんなことをしたら、現在話題の真っ只中にいるライヴドアの社長のようにたたかれるかもしれないけれど。(ホリエモンを全面的に支持しているわけではありません。)

最後には校歌斉唱。「起立してください」というアナウンスに応えることができなかった自分がいた。生徒たちの中には肩を組んで歌っている人たちも大勢いた。口ずさめる歌だ、亡き校長には少々すまないと思いながらも、心の中で歌っても、私は立つことができなかった。舞台下手から会場を覗いていた先生の視界には、ちょうど入ってしまったかもしれない。その先生は歌っておらず、明らかに起立しているかどうかを見ているようだったから。


3月9日(水)  ポータブル・ロール・ピアノ

某楽器メーカーが売り出している、これ。某ジャズ歌手が笑っている姿が宣伝に使われている。
これは、巻き寿司を作る時のように、くるくると巻くことができて、持ち運びができる、薄っぺらい鍵盤、という道具。某通販会社の倍くらいの値段がするので、ちょいとどれどれと見聞。

使えない。タビに出た時に、最低限の運指練習くらいはできるかと思ったのだけれど、実際の鍵盤の大きさではないし、非常にレスポンスが悪い。うーむ、シンセサイザーを持って歩くわけにはいかないし。誰か作ってくれないかしら。

聞くと、例えば、ピアノを習っている小さな子供がおばあちゃんの家に行った時、ちょっとその腕前を披露する、といった程度のものらしい。それでも、売り出した時は品切れになるくらい売れたとのこと。し、し、信じられない。私は頼まれても宣伝に荷担しないだろう。って、誰が頼むっちゅうの。


3月12日(土)  若い力

高校生のブラスバンドの人たちのためのワークショップを手伝う。なにせ初めて会ってこんにちわの世界だ。なかなか打ち解けないのはやむを得ない。ワークショップというものは、なんとなく雰囲気などに慣れてくるのに、最低でも概ね1時間くらいはかかるのが常だ。それでも、最後はなんだかみんな笑顔で、なんだかかわいらしく感じられた。

帰宅して、深夜、去年のNHKのロボコン(ロボット・コンテスト)を観た。ロボコンは好きで毎年観ていたのだけれど、去年は見逃してしまっていた。最初の頃に比べて、ロボットの性能も、作戦を立てる知恵や工夫も、レベルが上がっているのには少々驚いたが、とにかく観ていて楽しい。なんだか知らないが、人間、捨てたもんじゃないというような気分になってくる。

これに参加していた多くの高専の高校生たち。昼間会ったブラ・バンの高校生にも彼らにも、まだたくさんの”未来”があることを、素直に感じている自分を見る。ジベタリアンだの、ガングロ(という言葉も既に死語か?)だの、ぬいぐるみを着ている子だの、ようわからん〜、と思っているけれど、彼らに期待したくもなる日になった。

としても、問題はその親の世代だろう。テレビでは数多くの大人たちによる「わいせつ」行為がにぎやかに報道されている。あな、情けなや。新しい製品(携帯電話やデジカメなどなど)に浮かれ、社会生活におけるマナーにもっとも無反省なのが大人だ、と感じることも多いのだけれど。


3月14日(月)  エリントンの態度

J.S.バッハ作曲・イタリア協奏曲の第二楽章を聞いていて、エリントンの演奏(例えば、『THE ELLINGTON SUITES』に収められている、「The Goutelas Suite」の「Having At It」)を思い出した。

エリントンのソロやトリオでのピアノ演奏も際立っているが、オーケストラでのピアノの在り様も相当ヘンだ。

それは多分ピアノに対する態度に関わっている。

学べ、と声が聞こえる。と同時に、カメラ目線で、ピアノに対してはまるで無頓着であるかのように横向きになって、にこやかに愛想を振りまいて笑っているエリントンが見える。

あ、はい、そ、そうですね。


3月15日(火)  音を出すものは

金、石、糸、竹、木、匏、土、革
紀元前3000年からある、中国の「八音」
楽器の素材から分類されている

打物、吹物、弾物
日本の雅楽でよく使われている呼び名

弦楽器、管楽器、打楽器
西洋における主たる分類

音を発する素材はいろいろあり、そのための様々な方法がある。
ずいぶん昔、フレッド・フリス(g)が企画した即興演奏のコンサートで、その音の初源的な在り方を聞いたことを思い出す。

弦、膜、個体、空気
古代インド

なーるほどお。私にはこの古代インドの考え方が一番ぴったりはまった。


3月17日(木)  雨のしずく

  春の雨
  細い糸のように
  いくつもいくつも
  枝に透明なしずく
  風にゆれて
  ふっ
      と
  落ちる
  その瞬間

J.S.バッハの曲をやった。から、なんだと言うのだ。誰かの手によって清書され、整然と書かれた音符を必死に追うだけの行為に、音楽はない、ことを思い知るべきだ。

高橋悠治さんが約28年ぶりに出したCD、J.S.バッハの『ゴルトベルク変奏曲』を聴く。ひっかかっている。つまづいている。装っていると見る人もいるかもしれない。いずれにせよ、故意に選んでいる方法と選ばれた音。流れないから、聴く者の耳を奪う。何を望んでいるのだ?そこを注意深く聴く。

セロニアス・モンクを思い出す。とっても熱いものに、あるいはものすごく冷たいものに触れた時のように、アッチッチ、と指を鍵盤から離す動作。よれよれのコートを着て、帽子をかぶって、ピアノから立ち上がって、カクンカクン、とぎこちなく踊る姿。

グレン・グールドのビデオ(『Off the recording, On the recording』)を目をこらして観る。特に指の動きをじっと見る。きれいに薬指と小指がピボットしている。多分ペダルは時々少しだけ細かく踏んでいる。すさまじい音の立ち方。指の美しさ。低い椅子。足を組んでの演奏。うたう声。右手だけのフレーズの際に、空中を泳ぎ、震えている左手。どこかを見ている目、何かを聞いている耳。

身体や心が音に触れようとする瞬間を、いつも生まれたての音として、ほかならぬ自分が受け止めようとする在り様。何年ピアノを弾いてきても、同じ曲を何百回と練習しようとも。命が誕生することの喜びと、なによりも怖れを、持ち続けようとする音楽家たち。

バッハには何があるのだ?


3月20日(日)  見たくなる文章

1921年生まれの画家・野見山暁治(のみやまぎょうじ)さんの本を何冊か買い求める。既に絶版、再販の見込みがないものもけっこうあるようなので、今のところ、あとは図書館で借りるしかないけれど。

『うつろうかたち』(平凡社)は'03年に出された近著だが、なんとも面白い。その語り口には温かいユーモアもあり、電車の中で読んでいたりすると、一人でくすっと笑ってしまう。その文章には世界や人間を見る「目」が生きていて、普段耳を使うことが多い私のような者には、「見たい」という欲求を起こさせる。

この「見たい」という気持ちは、『四百字のデッサン』(河出文庫)を読み進めているうちに、「もっと見たい」に変化した。既に亡くなってしまっている人たちのことも書かれているのだが、ああ、この風景の中でこの人を目の前で見てみたいとか、この人の描いた絵とじっと向き合ってみたいと思ってしまう。この本で、野見山さんは1978年にエッセイスト・クラブ賞を受賞しているのだが、文章がとてもすてきだ。五感が開くような、いろんなことを感じさせる文章だと思う。

「人間」ということを思ってしまう。人間が描く絵。人間が奏でる音楽。それはどういうことなのか?

昨日だったか、NHKで東京大空襲の特集を放映していた。今や、戦争の状況はテレビやwebで、ほとんど時差がない状態で、私たちは見ることができる。が、今もなお決して忘れることがない光景や悲鳴を記憶にとどめ、赤い炎を描いている人の絵を見て、その絵にかけられた時間と想いを推し量ると、涙が出そうになった。

なお、野見山さんは戦没画学生を訪ねる旅をされていて、それは例えば『遺された画集』(平凡社ライブラリー)にまとめられている。彼らの絵画などは、現在、長野県・上田市にある”無言館”で実際に見ることができる。戦後60年ということもあって、東京ステーションギャラリーでも展示会があったようだけれど。その館主である窪島誠一郎さんも同様の本を出しているが、縁あって、私はここで2回ほど演奏したことがある。建物が十字架の形をしていて、なんだか非常に特別な雰囲気を感じながら演奏したことを憶えている。

余談。

一般に、美術は結果としての作品を、私たちは見ることになる。その過程をも見せようとする試みが、今月いっぱいまで、練馬区立美術館で行われている。『創造のさなかに・・・ただ今、製作中・・・展』と題された展覧会には、小学校から高校までいっしょに学んだ吉田亜世美さんの作品も展示されている。

以前、彼女は府中市美術館でも、同じように製作過程を見せるという作品製作をやっていた。ガラス張りになった部屋の中で製作をしていて、誰でもその姿を見ることができる仕掛けになっていた。ちょっと動物園のような感じがしなくもなかったけれど。

時折、美術というのは、ただそこに作品がある、というだけでは、作り手あるいは鑑賞する方が(?)、満足できないものでもあるらしい。過程を見せたり、作品の説明をしたり。

アクション・ペインティングも含め、私はその製作過程を見せることに別段批判的なわけでは決してないが、何かがある作品は必ずそれ自体がものを言っていると思っている。また、作った美術作品に、それは同様に、奏でられた音楽に、基本的に言葉は一切いらないし、少なくとも作り手はそのことを覚悟するか、どーでもええけんねーと、ちゃらんぽらんにしている方がいいと思っている。

その本を読んで、野見山さんはそのことがよーくわかっていらっしゃると思った。って、なんて不遜なっ。普段、みなさんに過程を聞いていただいているような、こんなひよっ子の私が言うことではないのは重々承知しているのだが。


3月23日(水)  ろくろ

初めて感じるような手の感触だった。電気の力で回っているろくろの粘土の冷たく滑らかな肌触りは、なんだか病み付きになりそうな気さえした。これまで手びねりによる陶芸は何度もやったことがあるけれど、ろくろがこんな風に面白いとは知らなかった。

この陶芸。どうやらその人の性格などが出るらしい。某人は同じような形の抹茶茶碗を二つ、頑固なほどに。某人は一度失敗してぐちゃと潰してしまった模様。
私はちょっと窪みのある湯飲みのようなものと、花瓶とお皿を作った。途中で、指の圧力を少し変えると模様のようなものができることがわかったので、呼吸を整えてトライ。また、時々座っている所から離れて眺めてみたり。

場所は栃木県・馬頭(ばとう)町。小砂焼(こいさごやき)で有名な所で、お世話になった所は江戸時代末期から続いている製陶所だ。現在六代目の方が営まれている。1年に1度火を入れるという登り窯や、旧来の絞り機(土から水分を抜き取る機械)などを初めて見た。

この馬頭町には、もうひとつの美術館(美術館の名称)があって、そこにも再び訪れた。この美術館は自閉症やダウン症などの障害を持った人たちの作品だけを展示している美術館で、その色使いや構図には目を見張るものがある。普通の人には見えないものが見えているのかもしれない。

こんな風にちょっと息抜きをする時間を持ってから、強い雨が降る中、インターまで1時間以上かかる山道を走り、高速道路を飛ばして東京へ戻る。が、私の少し前に赤いランプをキラキラ点した車が走っていて、三車線とものろのろとメリハリがない走行運動を続けている。おかげでひどく眠くなって困った。

けれど、夜のライヴは、メンデルスゾーンの曲のリハーサルをしたこともあってか、緊張感のある、いいライヴだったように感じる。


3月26日(土)  代わりに、はないだろう

長年関わっている劇団・トランクシアターから、今年は2本、芝居の音楽監督の依頼があって、その打ち合わせをする。

演劇の創作には想像を絶する膨大な時間と手間がかかる。最初に演劇と関わった時は、正直、かなり面喰った。特にジャズや即興音楽といった音楽に関わっている私には、その寝食をも共にするような在り方も含めて、信じられな〜いというようなプロセスがそこにはあった。

しかしながら、それだけの時間がかかるのは事実だから仕方ない。少々頭を抱えるのは、その時間を共有することを、彼らが望んでいることだ。そう言われても〜、という感じで、これまで私は私なりにできる限りの範囲で関わってきたつもりだが。時折、共に過ごさなかった時間のために、非常に疎外感を抱くようなストレスも感じながら。

そして彼らは「代えはきかない」と言う。これは、音楽というものは、譜面が読めてそれを演奏できるだけの技術があれば、Aさんの代わりにBさんでも成立するようだけれど、私たちはそういう関わりは望んでいないということを意味している。

このことに対して、私はこう応えた。
音楽においては、例えばスタジオ・ミュージシャンと言われるような人たちはそういう仕事の仕方をしているかもしれないし、急に体調を崩したといった理由で、いわゆるエキストラ(代わりの人)を入れる場合もある。
あるいは、基本的にどうしても集団で創っていく演劇よりも、音楽のほうが個人の力に負う部分は大きいかもしれない。
けれど、基本的に音楽は”その人”が奏でるものだと思う。ソロ以外の活動であれば、誰とやって、何を人に伝えることができるか、が問題だと思う、と。

私はこのことを'80年代末にやっていたORT(オルト)で学んだように思う。人数が多いユニットで、ここでこの楽器の音色が欲しいからという理由から譜面を書いて失敗したからだ。音楽はその楽器の音やそれを演奏する人の技術から生まれるものではないだろう。”その人”でなければならない、”その人”だからこそ、という何かがそこにはあって、そこが音楽の不思議にもつながっているように思う。

そういう意味で、武満徹が琵琶と尺八の奏者をあらかじめ想定して作曲した「ノヴェンバー・ステップス」も、デューク・エリントン楽団の在り様も、20世紀に残った音楽としては突出していると思う。特にエリントン楽団のようなことは、クラシック音楽のオーケストラでも、ジャズのビッグバンドでも、誰も実現できないようなことをやり遂げていると思う。おそるべきサウンドだ。

さーて、どうするかなあ。今年は時間との闘いか・・・。


3月27日(日)  町づくり

平成の大合併と言われる市町村合併。これにより、多くの地名が変わった。万葉の時代からあった名称は消え、多くの利権やエゴがからむ地図模様。

新潟県にかつてあった白根市(現在、新潟市)で行われたコンサートで演奏したら、その一番最後に歌われていたのが、白根市の市歌だった。そっか、歌も消えるんだなあ。

地方では公共施設や第三セクターがやっている施設に、友の会や応援団が積極的に関わって活動している所も多い。過疎化していく流れの中で、地元の人が手作りでがんばっているコンサートや企画などもたくさんある。

時折、正直言って、素人と仕事をするのはなかなか難儀な部分もある。が、もしうまくいかなかったら、何故そうなったかを反省して学び、次回に活かせばいいだけのことだ。非常に僭越ながら、私たちの仕事はただ音楽を奏でて帰ってくるだけではなく、そうした人たちの耳を育てることもあるのだろうと思っている。よりよい音楽を聞いてもらうために。みんながより豊かな気持ちで日々を過ごせるように。

10日ほど前、私が住む東京・府中市の京王線・府中駅南側には、駅に直結している高層ビルがオープンした。いわゆるシネコンも入って、急に映画館が9つもできた。これで「文化」のある町のイメージもアップするということらしいが、1階にはパチンコ屋が入っている。

駅前には既に高層マンションが建っているが、同じく南側の旧甲州街道沿いにも、背の高いビルが2棟建設中なのが、自宅からも見ることができる。あの辺り、時が経つと、ゴーストタウンと化すのではないかと危惧しているのだが。ともあれ、空がだんだんうまっていく。

国によって「景観法」が制定され、施行されたのは昨年12月。市が「府中市年景観条例」を制定したのは平成10年6月のことになる。そして、今更のように、都市景観に関するアンケート調査なるものが届いた。遅いっ。

府中には大国魂神社という古くからある神社があり、そこから北に向かって参道だった所が道路になっている。その道路はけやき並木になっていて、市のシンボル的存在にもなっている。

けれど、けやき並木通り沿いはもはやどうにもならないであろう状況に陥っている。

ひどく品がない、派手なカラオケの看板。
どこにでもある居酒屋のチェーン店が軒並み入っているビル。
それに銀行合併で空いた土地には、そのうちまた高層ビルが建つ予定で、しかも温泉を掘っているという。駅ヲ降リタラ2分デ温泉、というわけだ。
商店街は消滅し、有名デパートを誘致して、テナントがたくさん入っているビルも併設して、市は税金収入を得ることができる。

東京競馬場の年間入場者数はのべ約400万人。もっとも多い時(最高約19万人:平成2年のダービー/最高売上高約726億円(1日):平成6年のダービー)では市の人口(約23万人)に匹敵するくらいの人が馬が走るのを見ているというのに、その経済効果が充分に地元に還元されているわけではないようだ。

そして、この町は年々個性を失っている。
などなど、言い出したらキリがない。

魅力的な町づくり。人が豊かに暮らしていける町づくり。とは、どうしたらいいのだろう?

かつて、このけやき並木を廃止する議案が出たこともあったと聞く。それに対し、将来に渡って絶対に保存していくべきだと、先頭に立って反対したのが、市の助役も勤めていた祖父だったそうだ。甲州街道に信号機が設置されて、紅白饅頭が配られたような時代の話かもしれないが。生まれ育ったこの町に、私もなんとか少しでも寄与したい。


3月28日(月)  二人展

1918年生まれの堀文子さん、1920年生まれの野見山暁治さんのお二人の作品による「二人展2005」が、銀座にある画廊・ナカジマアートで始まった。美術のことはよくは知らないが、お二人とも大巨匠。

オープニングということもあって、ものすごい人で、とてもじゃないが、ゆっくり作品を鑑賞することなどできなかった。それでも、私には「木の冬」と題された堀さんの作品が深く印象に残った。両巨匠とも会場にいらっしゃったが、私はほんの少し離れたところから堀さんの姿を見ることができただけでも、なんだか温かな心持ちになった。





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