7月
7月5日(木)  あれから一年

突然、耳がおかしくなってから、今日でちょうど一年経った。

低気圧のせいか、先週末から耳鳴りは1オクターヴ上がり、ぼわぼわし、おまけに軽いめまいに見舞われ続けている。ちょっと集中して仕事をしたり練習したりすると、その後小一時間くらい横になっていないといられない感じになる。

そんな状態を押し切って、午後、太極拳の教室に行ったら、途中で顔が青いと言われ、ちょっとダウンしてしまう。

でも、一年たって、やっと、少しだけ、この耳との付き合い方がわかってきた(?)ような気がする。

おそらく、今後は大音量や電子音など、つまりきつい音圧を伴う音楽には耳栓をすることになると思う。また、右耳と左耳で聴き取っている音の音質が異なっていることを自覚し始めた。私の場合、右耳の低音の聴力がやや劣っているためだ。これは夜眠る時に聞こえてくる時計の秒針の音でわかった。それに、日によって程度に差があるけれど、右耳の聞こえ方は発症した時のように、少しエコーがかかったようになったままだ。・・・などなど。

と、まあ、こんな具合の耳の私になってしもうたけれど、音楽活動は続けられている。神様が私に与えた何かだと思って、あとはもう、こうして音楽を聴き、演奏できることを、ただただ幸せなことと思って、これからも音楽を創り続けていきたいと思う。


7月9日(月)  ファジル・サイ その1

舞台の下手から出てくる時、ずいぶん猫背というか、頭が前に出ていて、せむし男のようにさえ感じられた歩き方だった。

そして、演奏中、両足が浮いている。

紀尾井ホール、前から5列目の左端の席から見たファジル・サイ(pf)は、ペダルを踏む時、両足とも床に踵を着けていなかった。ジャズ・ミュージシャンでこのような奏法をする人を2人くらい知ってはいるものの、最初から最後まで踵を着けずにペダルを踏む人は見たことがない。

右足でサスティーン・ペダルを踏む時、無論爪先でペダルを押すのだが、その際に決して踵を床に着けず、宙に浮かせたまま踏んでいる。ペダルを踏まない時も足を少し浮かせているか、床に爪先を着けているか、で、決して踵は着けない。これはソフト・ペダルを踏む左足も同様。時々、ペダルの柱に足をかけていることもあったけれど、ほとんど宙に浮かせているか、床に爪先を着けているだけだ。この足の状態でどれくらい細かいペダル操作(表現)ができるのだろうか?

とにかく、まず、この演奏姿勢に驚いた。

ここでニュートンの力学を持ち出すまでもないが、身体はバランスを取ろうとする。実際、演奏中のサイの身体はけっこう前後左右に動いているし、時折歌う声も聞こえてくるのだけれど、想像するに、そういうペダルの踏み方をすると、上半身はやや後ろに重心が来て、その分頭が前に出るように思われる。それに腿の筋肉や腹筋、背筋も必要だろう。(特別な筋トレをしているとは思えないが。)また、鍵盤を叩く時、腕の重みだけがかかるような気がする。思いを込めたり、体重をかけたい時は、前かがみになっているようではあったけれど。

この奏法、私は絶対“腰”を悪くすると思う。どこに一番負担がかかっているかを想像するのは難しくなく、いわばテコのようになっている大元の腰の骨と骨の間は、もう相当磨り減っている気がする。あと4年で日本で言われるところの男の厄年を迎えた時、やばくはないか?

で、当然、家に帰ってから真似をしてみたが、この姿勢を50分くらい保つのはかなりたいへんだと感じた。慣れてしまえばなんともないのだろうか?あるいはオルガン奏者はどうなのよ?みたいな。



この日は「Say Plays Classic」と題されていて、そのプログラムは

J.S.バッハ シャコンヌ(ブゾーニ編曲)
ハイドン ピアノ・ソナタ ハ長調
モーツアルト ハ長調 きらきら星変奏曲

ベートーヴェン ソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」
   〃      ソナタ第23番 ヘ短調「熱情」

おそらく座った席のためだと思うけれど、どうもピアノの音が鮮明に聞こえてこない。こもったように聞こえてきて、あら〜?というのが第一印象。あの演奏姿と演奏法との関連をひたすら分析し始めてしまった。

演奏曲としては、おそらくピアノを習っている人ならば、誰もが一度は通るような、ハイドンのソナタは解釈が非常に明解。途中で譜面には書かれていない“遊び”もあって、文句なく楽しい。モーツアルト、しかり。サイが生き生きとして見えてきた。

後半のベートーヴェンのソナタは、なんとなくどうも今ひとつしっくりこない。重厚感という先入観あるいは偏見を持っている方もいけないと思うが、全体にちょっと軽い感じがして、こちらにぐっとこない。

が、アンコールで演奏された自作曲「Black Earth」、それにガーシュインの「サマータイム」を元に作曲したもの、これは実に面白かった。音の立ち方が全然違って聞こえてきた。本人は明日の予告みたいな感じだったろうとは思うが、私のような音楽のとらえ方をする人間には、やはり自作曲、自編曲の演奏の方がちょいと心に響く。

「Black Earth」はサイでなければ弾けない。楽譜が売られていたが、その楽譜通りに日本人が弾いても説得力は持たないと思う。サスティーンペダルを思いっ切り踏み込んで、片手で弦に直接触ってミュートして、片手は鍵盤は連打する、あの響き、サウンドは、トルコ出身のサイ、そのものだと感じられたからだ。その響きはまるでイスラムのモスクの臭いまでもこちらに届ける。

思わず、太田惠資(vl)さんの声とヴァイオリンが思い浮かぶ。ぴったりじゃないのおおお。サイとなら、そこから即興でいくらでも世界を展開していける気がした。

「サマータイム」は原曲はAmだが、サイはBmで始める。おそらくBmの響きが好きなんだろうと直感する。途中でラグタイムっぽい感じ、アート・テイタム風な感じ、超速の4ビートっぽい感じなど、いろいろ変化する。途中で少しAm、さらにEm、そしてBmに戻っていく構成。私としては明日の演奏とどう違うかを期待してしまった一品。


7月10日(火)  ファジル・サイ その2

「インプロヴィゼーションの“テーマ”募集!!」

これは昨晩も配られた白い紙に書かれた言葉。今日のプログラムの後半は、いわば「お題拝借」、つまりお客さんが書いた“テーマ”のリクエストに応えて、サイが即興で演奏するという趣向だ。それは開演時間まで受け付けられていた。

今日は「Say Plays Say」と題されている。をを、いいじゃないの、と私は思うが、残念ながらお客様は昨晩より少ないようで、若干空席が目立つ。うんむう、これが日本のクラシック音楽を享受する聴衆の現実なんだろうと思う。

前半は昨晩アンコールで演奏された「Black Earth」から。のっけから気合が入っている感じが伝わってくる。

今晩の席は正面の二階。わをっ、まるで響きが違う。オペラシティにしてもオーチャードにしても、おおむね二階席の方が音は断然良いと言われていて、実際そうなのだけれど、この紀尾井ホールも、まんず、まあ、昨日とは全然違うではないの。昨日の感想は吹き飛んだ。サイは響き、音色、サウンド、強弱などなど、すべてにかなり神経を注いでいる。それはあの身振りを伴う演奏姿、つまりすべての響きを身体が感じてそれを空中に解き放とうとしている姿からも充分伺い知れるのだけれど、それを堪能するには二階席、だ。(ただし、足まではよく見えないから、二日間、まったく別の席で聴くことができたのはラッキーだった。)

で、その後のプログラムは

トルコ行進曲・ジャズ風
3つのバラード
サマータイム・ファンタジー
ヴァイオリン・ソナタ

Insaide Serail(後宮の中で)
“テーマ”による即興演奏
サイが採り上げたテーマは11個。
1 宇宙、2 From Turky To Tokyio、3 Rain(パガニーニ・ジャズ風)、4 着物、5 自由、6 マラソン、7 幽霊、8 失恋、9 古代ギリシャ、10 闘い、11 情熱

前半に演奏されたモーツアルトやガーシュインのモティーフを用いたものは編曲ではなく作曲という扱いになっている。すべて楽譜になっているから、そういうことなのだろう。かくして、「サマータイム」は昨晩とほとんど同じ演奏だった。うんむう、明らかに違う部分も作って欲しかったなあ。もし黒田京子トリオが演奏したら、昨晩と同じことは誰もしないだろうと思うけれど。

1997年、サイが27歳の時に書いたという「ヴァイオリン・ソナタ」は、全5楽章からなり、彼のピアノの響きに対する志向と、作曲における構成感がよくわかる作品だったと思う。特にピアノ及びヴァイオリンの高音に対する執拗な美学、繰り返されるフレーズやパターンなど、作曲家としての特徴を感じることができる作品になっていたと思う。

途中で「Black Earth」のような内部奏法を使うところでは、やはり太田惠資(vl)さんが、強い調子のプログレっぽいベースパターンが続くところでは喜多直毅(vl)さんが、私の頭の中ではぐるぐるサウンドし始める。この曲は譜面の通りにしか弾かない人より、太田さんや喜多さんとやったほうが面白くなるに違いない、と甚だ勝手に思う。(んだども、業界的には困るんだろうなあ。)

「3つのバラード」は聴いている途中からほとんど意識がなくなってしまった。(寝てしまった。)調性感のある、例えばキース・ジャレット、チック・コリアを思い起こさせるような感じもあった?そういえば、二人ともモーツアルトやバッハも演奏していたっけ。

後半の「Insaide Serail」はモーツアルトの「トルコ行進曲」が入っているソナタの第一楽章のテーマをモティーフとした曲。その出だしはちょっとコリアのかもめ風。

そして、残りの約35分間は“テーマ”による即興演奏。テーマの並べ方、つまり演奏する順番を決める時に、おそらくサイの頭の中には、それぞれの曲のおおざっぱな方向、全体の構成、が作られていたのではないかと思う。が、どうだろう?というか、サイにとって、即興演奏、とは何なんだろう?あなたにとってジャズって何?と、訊いてみたくなった。

若干抽象的な雰囲気で始まる。2曲目は多分「ウスクダラ」から。そして日本の五音階的な流れへ。この辺りのサイの演奏の自然さは、ほとんどシルクロードを思い起こさせるものがあったと思う。ドイツやフランスで育った演奏家にはおそらくできない。他、ストラヴィンスキー風、メシアン風、ピアノの低音と高音を意識した演奏、どこかキース風、調性感のある・なし、などなど、聴いている者を飽きさせることなく、抜群のテクニックで弾きまくっていた。

1970年生まれと言えば、日本には平野公崇(sax)さんがいる。言うまでもなく、彼もまた即興演奏という領域に積極的に関わっているミュージシャンだ。先週NHKハイヴィジョン「クラシック倶楽部」(再放送)で見た、彼の“バッハ・プロジェクト”はなかなか聴き応えがあるものだった。何故彼がバッハ及びバッハ・ファミリーにこだわり、そこで即興演奏にもこだわっているかがよくわかる音楽内容になっていたと思う。

サイにしても平野君にしても、さらにその2年後に生まれている喜多(vn)さんにしても、とにかくクラシック音楽で鍛えられた演奏技術は文句なく素晴らしい。にも関わらず、とてもじゃないがその世界にとどまっていられず、言葉は悪いけれど、いわば業界や常識からやむを得ずはみ出している人たちが、現在30歳代半ばくらいの世代の人たちの中にいる、ということが、少なくとも私にとっては、楽しい未来を期待させる。

「20世紀に入ってから、ピアニストと作曲家という仕事ははっきりと分断されてしまった気がします。ベートーヴェンは、自分のインプロヴィゼーションによるコンサートを、“芸術的演奏会”と称していました。20世紀に入ると、インプロヴィゼーションとは、アカデミックの反対に位置すると思われるようになりましたが、ベートーヴェンはそのコンサートをアカデミー的だと自ら言っていたわけです。」(ファジル・サイ/「レコード芸術」 2006年7月号より)

上記の文章はパンフレットに転載されていたものだが、サイや平野君、喜多君(喜多君には“タンゴ”があるから、先の二人とは質が異なるけれど)などは、20世紀のクラシック音楽の演奏家が明らかに失ってしまったものに、自ら気付いた人たちだろうと思う。たいへん僭越かつ遅ればせながら、3年前にブラームスに取り組んだ私が気付いたことでもある。

ただし、これに“ジャズ”の文脈が入ってくると、「ちょっと待ったあああ」で、話は少し異なる。即興は方法ではない、と私は考えるためだ。さらに別にアカデミック的である必要などないと思うからだ。むしろ、ジャズはそういうところからは生まれていないことを思えば、逆にアカデミックなんぞ糞喰らえ、だろう。(最近はちょっと違う動きもあると思うけれど。)そこには別のスピリット、また人間や世界を認識する眼や、その人の在り様が存在していると思われ、私がこだわるのはその部分だ。

ちなみに、私自身は、例えば学生運動華やかりし頃の山下洋輔(p)トリオの世代の人たちが抱えているであろう、時代的なものは背負ってはいない。が、かろうじて時代の雰囲気を記憶している最後の世代になると思う。私の場合は、それがフォークソングになるけれど。

だから、音大生や音大を出た人たちの、「ジャズもやってみました〜」「コードでアドリブができます〜」みたいなちゃらちゃらした姿勢には、表面上は多少にこにこしても、ほとんど我慢できない。何故あなたは音楽を奏でているの?きちんと自分を問いなさい、と私は小姑のように言うだろう。

と、まあ、なんだか話が広がってしまったが、いろんなことを考えさせられた二晩のコンサートだった。いい勉強になった。


7月12日(木)  小室さんと

温かく、強い時間が流れた。

その人のことを、「まるで仙人のようだ」と言う人も少なくないらしい。誠実で、穏やかで、心の真ん中を通っている軸のようなものがゆるがない。あまりにさりげなく、一見普通っぽかったり見えるのだけれど、あの震える声は確実に何かを人の心に伝える。そして最後には、その人間の在り様に、なんとも言えない感慨が残る。あの「聴く(人の話に耳を傾ける)」態度は、「Don't worry」と少女に言葉をかけたダライ・ラマのような雰囲気でさえある。

大泉学園・inFで、小室等(vo,g)さんと演奏。これは店主・佐藤さんが提案した企画で、“小室さんとピアニストたち”のようなものの第二回目。一回目は清水一登さん。さらに、次回は千野秀一さんに決まっているらしい。ちなみに、千野さんはかのダウンタウンブギウギバンドより以前に、小室さんのバンドにいたのだそうだ。驚き〜。

そして今回は梅津和時(as,cl,b-cl)さんも加わり、前半は中原中也や宮沢賢治など、詩人の作品に曲を付けたものを演奏。後半は武満徹さんが作曲した短いピアノ小品(譜面)を梅津さんと演奏、その後武満さんの歌をやり、最後は拙作を織り込んだりしながら、その底流に反戦を抱えている歌を演奏する。

終演後、「何故あなたはあのようなパフォーマンスをするようになったの?」と訊かれる。小室さんと話をしていると、概ね核心を突くようなお言葉を頂戴することが多いのだが、あのようなパフォーマンスとは、なんだか知らないが、演奏中にふっと言葉をしゃべったり、アコーディオンを抱えて歌ってしまったりする状態のことを指す。

それで、1980年代後半にやっていたORT(オルト)の時代に、ものすごく恥ずかしい思いをしながら歌をうたったりしたこと、その後演劇や朗読に長く深く関わったこと、大学時代は文学部だったことなど話してみたりする。さらに、そうした環境の中で、音楽を時間軸だけではなく、空間軸でとらえようとする志向があるのだと思う、とも話した。

その後、「言葉」、さらにその内容や「意味」と自分との距離の測り方をめぐって話したことが面白かった。アメリカやヨーロッパの音楽がどんどん輸入されてくる時代にあって、“日本語”と対峙してきた、小室さんの姿勢や年輪のようなものを強く感じる。

また、三人それぞれが、何らかのかたちで武満徹さんから非常に影響を受けている、という話をしたことも印象深く残っている。梅津さんは武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」に出会わなければ、国立音大で音楽を志さなかったと言っていた。私もまた例えば「AI(あい)」という作品を聴いて、“表現”の多様さを学んだ・・・云々と話をした。

あ、そうだ、やっと「出発(たびだち)の歌」のシングル盤にサインをしてもらったのだ。幼いながらも、これからは“フォーク・ソング”も変わっていくという時代の予感のようなものを抱いた作品。当時の値段で400円もするから、せっせとお小遣いを貯めて買ったのだったと思う。何回も聴いたなあ。


7月14日(土)  すごく女性・その1

『夏の旅 シューベルトとまちの音』と題された、オランダ在住の向井山朋子(p)さんのコンサートを聴きに、門前仲町・門仲天井ホールに行く。そのチラシはモノクロながらどことなく挑発的。以前オペラシティのコンサートの時と同様、衣装は白色で下着は着けていない。少々胸ははだけ、腰の辺りの肌も見える。

演奏は一時間強。シューベルトの「即興曲」、シミオン・テン・ホルト作曲「カント オスティナート」、自作曲(即興演奏?)を中心に、あらかじめ録音されてオランダに送られ編集された“まちの音”がコラージュされる構成。思わず、ORT(オルト)をやっていた約20年前を思い出してしまう。その後、なんとなく付け足しのような感じで、アフタートークの時間が設けられていた。いっしょに連れて行った生徒曰く、「あのトークで1500円(コンサートの料金は3000円)ですかあ?」。

シューベルトの曲の弾き方や、「シューベルトとまちの音」の意味も最後までよくわからなかったが、アフタートークもよくわからなかった。そのトークがいけなかったのか、なんだかオペラシティの時とだいぶ印象が違う。残念ながら、私にはその態度も考え方もどうも傲慢に感じられてならなかった。

アフタートークで語られていた「Wasted」という、ネーミングが逆説的なイベント。これはこの企画に賛同してくれた人には白いドレスを送るので、それに月経血で印を付けて送り返してもらい(だから女性限定)、最終的には1万2000着を集めて2009年に展覧会をする、というもの。基本的に音楽とは何ら関係ない。

「何故こういう企画をしたのか?」と質問をしたのは私。向井山さんは非常にプライヴェートな動機と外的理由がある、と答え、プライヴェートな点については、ご自身がそろそろ女性としての終わりを感じていることを言っていた。のみならず、彼女は「白いドレスに月経血を残す行為をすることで、多くの女性に自分と向き合う時間を作って欲しい」と話していた。

うんむう、甚だ余計なお世話だ、と思う。あなたに言われなくても、女性なら誰もが否応なしに向き合うことだろう。生理があっても子供を産めなかった人、子供を交通事故で失った人、更年期障害で鬱状態になって苦しんでいる人などなど、その事情や状態は様々で、音楽家がするべきことは、その声なき声を音や歌にすることではないのか?

また、「コンサートホールという特殊な空間で音楽の持つ熱のようなものをみなさんと共有できることは私にとっていちばんの喜びです。いつの頃からか、私はその熱の行方が気になっていました。すれはすぐに散ってしまうものなのか、どこかに残って保たれていくものなのか、観客の方が家に持って帰って、何か別のものに変容していくのか、って。ここで交換したこの熱(エネルギーといってもいいか)を取り出し、繋げて、新たな形を与えたいと思って始めたのがwastedです。」

これは終演後に配られた紙に書かれた向井山さん自身の文章。彼女が演奏の“場”や“空間”を非常に意識していることは、今回のピアノのセッティングを見てもよくわかる。ピアノの蓋で隠れる部分を除いて、ほぼ彼女を囲むように客席は作られていた。オペラシティの時もそうだった。私はこうした考えには共感を抱く者の一人だ。さらに、彼女が上記のように思う気持ちも痛いほどわかる。

が、多くのジャズミュージシャンや評論家が好んで引用するエリック・ドルフィーの言葉を出すまでもなく、どうあがいても音のゆくえなど誰もつかめない。交換したことも、繋がることも、新たな形も、畢竟幻想に過ぎないと思う。残るのは極めて個人的な音楽体験だけであり、そこにまで踏み込むのはこれまた余計なお世話だ。

音楽家はどこまでもいっても「あっしにはかかわりのねえことでござんす」的態度をとるしかないのであり、それこそ、そうやって永遠の“(夏の)旅”をするのではないのか?

って、辛口なことを書いてしまったか。でも、おそらくほぼ同世代である彼女の活動は、これからも見続けていきたいと思う。


7月15日(日)  すごく女性・その2

「入院○回、自殺未遂×回、留置所△回、・・・」
いきなり、ドスがきいた低い声で、こう話し始めた。それからビリー・ホリデイ(vo)のことを少しだけ話して、「OK!」といった感じでライヴが始まった。

夜、下北沢・レディージェーンで、沖山秀子(vo)さんと初めて演奏。早坂紗知(as,ss)さんに誘われ、永田利樹(b)さんと4人でのライヴ。

実は沖山さんのことをほとんど知らずに、今晩に臨んだのだった。夕方、店に早く入ってリハーサルをした時から、そりゃもう、強力。その存在感に圧倒される。自分とはまったく異なる人生を歩いて来た人の声であり、歌だった。そして、その手作りのサンドイッチに感謝。


7月16日(月)  鳴ってよ、あなた

今日、演奏したピアノはベーゼンドルファー。最低音部に黒く塗られた白鍵がなかったので、インペリアルではない。調律師さんによれば、あまり使われていないとのことで、鳴らない。それにちょっと残響が干渉し合っているところがあるようで、音が濁って聞こえてくる箇所がある。その構造はスタインウェイとまったく異なっており、座ったところから丸見えになるダンパーのフェルトが平行四辺形に見えた。ので、?と思い、すぐに調律師さんに訊いてみる。

ベーゼンと出会う機会はそれほど多くはない。記憶をたどってみても、概ね、弾きにくかった、あるいはとても私の力では弾きこなせないと感じたことを思い出す。なんとなくくぐもったような、陰影のある深い音色は嫌いではない。でもだからこそだろうか、奏でられる音楽を、ピアノが要求している気がする。

そんなことをつらつら考えたりしていて、またピアノの本を読み始める。『ピアノはいつピアノになったか?』(伊東信宏 編/大阪大学出版会)。今春出版されたもので、これは2003年から足かけ3年(全8回)、大阪で行われたレクチャーコンサートの内容がまとめられたもの。300年に及ぶピアノ音楽の歩みを、「当時の楽器を用いて」紹介するというものだったらしい。

このレクチャーコンサート、聴いてみたかったと思って、ちょいと検索をかけてみたら、去年末から横浜でやっていた(「ピアノの歴史」(全8回)/企画構成 渡邊順生)。もっと早く気付けばよかった。


7月17日(火)  愛すべき人たち

あれから丸三年の月日が流れた。「あれから」というのは、ブラームス作曲「ピアノ三重奏曲第一番」を、翠川敬基(cello)さん、太田惠資(vl)さんと演奏してから。その間、私は眼と耳を患った。次は脳か?

打ち上げの席で、
私 : 「二人とも愛していまーす」
翠川&太田 : 「薄ーーーい」

あと15分早く来てくれていれば、あと15分飲みに行かずに待っていてくれれば、三人で音を合わせる(リハーサルをする)ことができたのに・・・。合わせるべき曲はせめて10分でいいから三人で合わせたい。

リーダーになってから、何かと気苦労が多い気がするのだが、ああ、愛すべき人たちよ〜。三人でいい音楽を奏でたい。新しくCDも出したい。もっと多くの人に、この三人の音楽を届けたい。


7月18日(水)  タブラーではなく

午後、鳥越啓介(b)さんと初めましてのリハーサル。いやあ、上手い。このような音楽性を持った若い人と演奏できる私は幸せ者だわい。

夜は吉祥寺・赤いからすで、澄淳子(vo)さん、吉見征樹(tabla)さんと演奏。澄さんは黄色い地にチェロとホルンや五線譜などが描かれている浴衣を着て登場。とても淳子さんらしい。

そして、吉見さん。あらためて、なんて素晴らしいミュージシャンだろうと思う。彼はいつだって「ただ聴いているだけ」だと思うのだが。いっしょに音楽を奏でられる歓びをしみじみ感じる。

ちなみに、「タブラー」はこの赤いからすのスケジュール表の表記。吉見さん曰く、タブラーともタブラとも言うらしい。が、一般的にはタブラ、ということで、次回からの表記は変わる予定。


7月19日(木)  横浜な一日

横浜・ブリッツで演奏。JR東日本の「大人の休日倶楽部」に入会している方たちを、日頃の感謝を込めてJR東日本が招待するというイベントでの演奏。午後4時からの開演ということもあり、イベントの性格上、客層は高年齢。でも、みなさんよく聴いてくださっていたように感じる。

なにせバカでかく、がらんとしたホールで、スタンディングで踊ったりもする会場らしい。当然、音響装置も大きい。よって、耳が心配。やはり低音がきつい。何故あんなに大きな音にしなければならないのか?そこで鳴っている音が聞こえれば充分ではないか?と感じている耳。

結局、自分のところには一切モニターで音は返してもらっていない。先の茅野市民会館でもそうだった。ドラムやパーカッションが加わっても、モニターは要らない。どうやら耳も意識も、そしておそらくこの指の感覚(表現)も、以前とだいぶ変わったことを、はっきりと自覚した。

終演後、突然コンサートにやってきた母と中華街で食事。それから横浜の夜景を見たことがないというので、駅近くのホテルの最上階のラウンジで、アイスクリームとシャーベットを食べながら、街の灯りを眺める。何はともあれ、横浜まで一人でやって来て、お腹いっぱい食べられて、元気でいてくれてうれしい。有り難い。こうした時間を持てることを、心底有り難いと思うようになった。


7月22日(日)  名古屋だがね

昨日、今日と、名古屋・ラヴリーで、坂田明(as,cl)さんのユニットで演奏。ホテルの近くには、何故か街中に観覧車がある。どうしたわけか、名古屋に行くと、「何故?」みたいなことに必ずぶちあたる。

夕方のリハまで時間があったので、美容院に行く。こういう時間でもないと、なかなか行けない。耳を患ってから初めてだ。

私は昔から“臭い”には弱い性質(あるいは敏感)で、ヨーロッパに行くと香水がきつくてかなりしんどい。その上、強いシャンプーやリンス、トリートメント剤、パーマ液、髪を染める液、こうしたものが発生する化学物質は、耳鳴りにとても良くないと言われていたので、これまでずっと敬遠していた。

ということで、ちょいと勇気を出してオシャレな店に入ってみる。思いっきりスタッフが若い店に入ってしまって、なんだかちょっととまどってしまう。どうやら彼らは“臭い(香り)”に敏感な人への対応は、学校では学んでこないらしい。耳鳴りのことなんぞ、いわんをや。で、私にはやはりちょっと臭いがきつかった。が、特に耳鳴りがひどくなることもなく、ともあれちょっとすっきり。


7月24日(火)  歌舞奏

非武装ではなく、歌舞奏(かぶそう)。これは五木ひろし特別公演のタイトルで、正式には『歌舞奏 スペシャル in SHINJUKU 』。

つまり、これまでアンタッチャブルだった、新宿コマ劇場という所に初めて足を踏み入れる。ををを・・・。

目の前に着流し姿の五木ひろしが立っているではないの。なんだかわからないが、ただそれだけのことに、少々興奮する。席が前の方だったので、顔などがとても良く見えたのだ。

“夜の部”といっても、なんと予想だにしていなかった午後4時開演。平日のそんな時間にコマ劇場にいることができる客層は自ずと限られている。若い人はほとんどいない。自分がもっとも若いくらいの雰囲気だ。

前半は和洋織り交ぜた構成と演出。出だしは日本の四季のうつろいの中で、「艶歌〜男唄」と題されたうたが歌われる。渡し舟が行き来したりして。色っぽい着物姿のお姉様方が登場して。殺陣なども少しだけ。五木ひろしは笛や三味線も披露。

その後、ガラッと一気に変わって、ダンサーたちの踊りから始まって、「ザッツ・エンタテイメント・ショー」。今回は今年亡くなった植木等を偲んで、クレイジーキャッツの「スーダラ節」から始まる。

その中に「ひとり演奏会in新宿」と題されたコーナーがあり、五木ひろしはドラム、サックス、チェロ、ピアノ、マリンバ、バラライカ、ファゴット、ティンパニーなどの楽器を、次から次へと演奏する。正直、ちょっと学芸会風で、あまり上手いとは思えないけれど、その気合と努力は充分に感じ取ることができる。今年、最後の50歳代を生きて(来年還暦を迎える)、懸命に自分を刻もうとしている演歌歌手の生き様を見た感じ。

その後、子供たちのヒップホップダンスがあり、洋舞、タップ、日舞、そして太鼓演奏。前半のエンディングは「夜空」が日本太鼓のリズムで編曲されたもので、大団円で終わる。ここまでで、約一時間半。

後半は持ち曲の歌がしっかり歌われる。途中、ゴスペルグループの歌もあり、五木ひろしがギターを弾きながら歌う曲も3曲あり、「よこはま・たそがれ」が歌われる。この山口洋子作詞・平尾昌晃作曲の大ヒット曲は、「あの人は行って行ってしまった」以下の部分以外は、すべて名詞だけでできている。秀逸だと思う。そして最後は新曲が披露されて、すべてが終了。きっちり午後7時15分終演。

今日は午前11時からも同じことをやっている。さらに、一ヶ月公演だから、今月2日から27日まで、全部で41回、同じことを繰り返している。およそジャズ・ミュージシャンにはつとまりそうにない日程だ。

今日はお客さんの入りはほぼ半分くらいだったと思うが、S席で12000円、あとはA席7000円、B席4000円という設定だから、ざっと見積もっても一ヶ月で億単位のお金が動いていることになる。ジャズ系のライヴハウスにはとても想像できない世界だ。

そして、編曲、演出、構成、音響、照明、装置、衣装、などなど、すべてがあらかじめ考えられていて、お客さんにご馳走のように提供される。その場限りの即興演奏など、一蹴されそうな感じだ。

そもそも何故この公演に行ってみようという気になったかというと、今年の正月にテレビ番組で見たトニー・ベネットのことを、某ミュージシャンと話したのがきっかけだ。

その番組の中で、トニ・ベネットはオーケストラやバンドといっしょにレコーディングをしていて、若いミュージシャンから「まさかいっしょに録音するなんて」とものすごく驚かれていた。現在、歌の場合、オケやバンドによるバックの音楽は完パケ状態(つまり完璧なカラオケ)で、歌手はそれをヘッドフォンで聴きながら歌をのせていくのが常識だからだ。

で、その某ミュージシャンが五木ひろしのレコーディングに参加した時も、五木ひろしはそのトニー・ベネットと同じように、バックの演奏の録音の時に立ち会っていたし、いっしょに歌っていた、と聞いたのだ。公演のパンフレットにも、五木ひろしはすべてのアレンジにこだわっているとは書いてあったけれど、こういう姿勢を貫いている歌手とはどんなものなのだろう?と、ちょっと興味が湧いたのだ。

はたして、舞台の前のオーケストラ・ピットでは、実際にバンドの人たちが演奏していた。最初はいわゆるクチパクではないかと、ずっと口元をみつめていたのだけれど、曲のエンディングなどで指揮者が立つのが見えたので、だとしたら、本当にちゃんと歌っているんだろうなあと思う。(なにせ頭上の吊り下げられたバカでかいスピーカーから音が聞こえてくるので判然としなかった。ちなみに、私は当然耳栓状態。)

さらに、後半はオケピのみならず、舞台の上手奥にはハープ奏者も含めたストリングス・セクションが5人いて、下手奥にはギター2人、マンドリン奏者1人、アコーディオン奏者1人、も演奏していた。演奏している人たちもかなりの人数になる。(これに役者さん、ダンサー、ゴスペル・グループ、子供ダンサーなどなどを加えると、本番の出演者の人数だけでもものすごい数になる。)

途中、各ダンスのシーン、タップダンスのシーンなど、何箇所かは明らかに既に録音されているものだったが、ほとんどは実際に歌っていると思えた。前半はどうやってモニターしていたかがよくわからないが、後半は片耳にモニターをはめこんで、めいっぱい歌っていたと思う。後半のマイクの使い方と歌い方に“プロ”を見た感じ。声を張る時に、背伸びをする感じでちょっとのけぞるのが特徴的。とにかく、これがほとんど毎日なのだから、半端な覚悟じゃとてもできないだろう。すごい。

今年、五木ひろしはN響とのジョイント・コンサートや、歌手では初めてとなる国立劇場での公演を行っている。国立劇場の方は、明治から昭和の歌謡史に残る作詞家にスポットをあてて、1ステージ構成で50曲以上を歌ったコンサートだったらしい。その活動はすばらしく意欲的だ。

にしても、歌詞の内容が要するにほとんど不倫を扱ったもので、調もマイナーで、メロディーもなんとなく同じ雰囲気。生来の声質、歌の内容は、これから大きく変わるとは思えないから、五木ひろしはこれまでの五木ひろしで在り続けるのだろう。

ということで、コマ劇場での公演をお腹いっぱい堪能した。私は美空ひばりを生で聴くことはできなかった。あと、北島三郎、都はるみ、だけは一度聴いておきたい。それに、一度は宝塚歌劇団と劇団四季か。


7月25日(水)  若きベーシストたち

鳥越啓介(b)さんとデュオで、大塚・グレコで演奏。久々にお客様2人の日と相成り候。夜はサッカーのアジア杯があった夜だった。と、ちょっとだけ自分を納得させてみたりする。集客力ないなあ、私。

昨日は西嶋徹(b)さんとリハーサルをしたのだけれど、鳥越さんも西嶋さんも超売れっ子で、今の30歳代を代表するコントラバス奏者だと思う。その音楽性は幅広く、頼もしい。その未来に乾杯したい気持ち。

鳥越さんは吉野弘志(b)さんに、西嶋さんは井野信義(b)さんに、それぞれ習ったことがあるとのことだが、なんとなく師匠は逆な気がしてならない。なーんちゃって。


7月26日(木)  意識を働かせる

太極拳の教室。とても学ぶことが多い。

手を使わずに、あるいは手の反動を使わずに、足だけで立ってみる。これがなかなかできない。身体が如何に退化しているか。自分で自分の身体に話しかけてみる。

“五功”における意識の働かせ方を丁寧に習う。関節を一つずつ意識する、などということは、云十年生きてきてやってみたことがない。ちなみに、先生は意識を集中することで、どうやら身体の関節すべてを動かすことができるらしい。指一本、その三つの関節を、先生は伸ばしたり縮ませたりしている。ひえ〜っ。この辺りのことは、ピアノの奏法にきっと役立つ。

「見る」と「観る」の話も面白かった。見てばかりいると、自分から出すばかりだが、観ることをすると、自分の方に引き寄せることになる。「聞く」「聴く」もしかり。ほとんど音楽の話のようだ。と、勝手に解釈する。

また、他人が肩を上から押さえつけていても、先生はすっと立ち上がれる。そして、できない私たちに「抵抗するからダメなのだ」と言う。この抵抗しない、という感覚。この辺りのことはすごく深そう。かつ、おそらく即興演奏に通じる部分があるように感じている。

まだまだまだまだまだほんの初めの一歩状態だけれど、こりゃ、面白い。でもって、こりゃ、たいへんな世界に足を踏み入れた気がする。


7月27日(金)  クラヴィコード

無料で受けられる市の健康審査に行く。現在、これまでの生涯でもっともデブになっている自分に愕然とする。相当やばい。マジにダイエットを考えないといけない。

携帯電話を買い換えた。“本体価格”をきちんと表示せずにモノを売るという姿勢に猛烈に腹が立った。思わず、店内で「これじゃ詐欺でしょう?」と若い店員に言ってしまう。「みなさん、そうおっしゃるんですが・・・」って、当たり前でしょう。こんなんでいいのかっ、ドコモ。

夜は自由学園明日館・ラウンジホールへ、「クラヴィコードの植物文様」と題されたコンサートに足を運ぶ。これは藤枝守さんが作曲したものを、砂原悟さんがクラヴィコードで演奏するというコンサート。このクラヴィコードは1780年代のドイツの楽器製作者・フーベルトが作ったものをモデルとしたものだそうだ。

このクラヴィコードという楽器は17〜18世紀のヨーロッパで広く愛用され、誰かのためにではなく、練習や作曲の手助けとして重宝がられていたそうだ。タンジェント(金属片)が弦を突き上げて音が出る仕組みになっているから、ピアノやチェンバロとは構造が異なり、独特の微妙な音のニュアンスが醸し出される。

いやあああ、その音のかそけきこと。あまりにも音が小さいので、聴いている人はまったく身動きできない。唾を飲み込む音も、お腹が減ってぐうぐう鳴る音も、足を組替える音も、すべてがよく聞こえてくる。振り返れば、すごい意識の集中度を要するコンサートという感じだ。そして、例えば現代のフルコンのピアノを想像すると、ピアノという楽器が如何に暴力的なものであるかを思い知らされる。

それにしても、こうしたクラシック音楽のコンサートは、何故、いつも誰も何も話しをしたりせずに始まって終わるのだろう?と疑問に思ってしまう。特に今回のように、普段あまり目にすることがない楽器を用いる場合、さらにこうした聴衆が50人くらいの空間ならば、演奏は演奏としても、何か別の時間を持つ工夫のようなことがあってもいいように感じた。

こうして、私の頭の中は?だらけ、訊きたいことだらけになってしまう。
休憩時間中に演奏者自身が調律していたが、調律(ピッチなど)はどうしているの?
同じ曲を、ピアノとクラヴィコードで弾くのとでは、演奏者はどんな風に違って感じるのだろう?
この日のプログラムでは、同じ曲を前半後半それぞれの最初と最後に配置していたけれど(音域は変えていたと思う)、その理由や意図は?

といったことを思うが、それらの言葉は全部飲み込んだ。気が付けば、フランク・ロイドが設計した窓の向こうに見える今宵の月がとても美しかった。

帰宅して、劇作家・太田省吾さんが肺炎(肺ガンで入院中だったそうだ)で亡くなっていて、9月にお別れ会が開かれることを知った。一瞬、「嘘!」と叫び、凍りついて涙ぐんでいる自分がいた。

牛のような雰囲気のある、背の高い、大きい方で、確かに煙草はいっぱい吸っておられたが、67歳ではまだ若過ぎる。もう一つ、大きな仕事を残せる人だったと思う。いや、残して欲しかった。非常に不遜ながら、できることなら、その音楽をどうしてもやってみたかった。

氷川台にあった“転形劇場”に初めて行ったのはいつのことだっただろう。ひとことのセリフもない芝居を観たのも、そこで、だった。表現について、ものごとのとらえ方、考え方、などなど、その演劇や著書から、私は多くのことを学んだ。心底、合掌。

今年は詩人・音楽評論家だった清水俊彦さんも亡くなってしまった。お会いしたのは、三宅榛名さんと高瀬アキさんのコンサートが最後だったと思う。雨が降る中、あの急な坂の上のフェリス女子大まで足を運んでいらっしゃった。また、高田和子(三味線)さんも最近亡くなった。大泉学園・inFで、高橋悠治さんと演奏されたのを聴きに行って、笑顔で話しをしたのが最後になってしまった。その死を心から悼む。

あと十年。いったい自分は何ができるだろう。


7月29日(日)  タンゴ・ハンタンゴ

地下鉄・表参道駅から上がった所にあったのが、スパイラルホールが入っているビル。ここで“機械じかけのブレヒト”のメンバー(大友良英(turntables,g)、広瀬淳二(ts,ss,self made instruments)、故篠田昌已(as,ts,bs,fl))と演奏したのは1988年のことだっただろうか。レディージェーン・大木さんのプロデュースで、タイバンは一噌幸弘(古今東西の笛)グループと高瀬アキ(p)さんのユニットだった。

というような思い出話とは全然関係なく、雨が降る中、小松亮太さん(バンドネオン奏者)のライヴに足を運ぶ。場所は青山・ブルーノート東京。このお店、以前に行ったのはジェリ・アレン(p)が来日した時だったと思う。って、いったい何年前のことじゃ?その時の印象で歩いていたら、どうやら店は引っ越したらしいことに、途中で気付く。ほとんどオノボリさんのようだ。

今晩は長いツアーの最終日とのこと。私が行ったのは2セット目だから、本当に最後の演奏になる。このツアーは「タンゴ、或いは反タンゴ」と題されていて、おそらく誰もが感じるように、それは何を意味するの?と思う。で、小松君がどのように音楽で答えるのかにちょっと興味があった。おまけに、ブラーボ(g)さんのことは存じ上げないけれど、喜多直毅(vl)さん、西嶋徹(b)さんというメンバーだもの。何をするのかしら?って思うでせう。

さらに、実は以前、小松君にあれこれ書き送ったことを思い出した、ということもある。その時の主旨は、自分でもっと曲を作ってみたらどうかしら?というようなことだったと思う。彼の大きなコンサートに足を運んだ私には、やっぱり彼の自作曲、あるいは熊田(p)さんのオリジナル曲が、とっても面白かったからだ。ったく、いらぬおせっかい、余計なお世話も甚だしい、穴があったら入りたい、私。

で、結論から書くと、「反タンゴ」の意味はよくわからなかった。ステージ上の小松君はけっこうしゃべっていたけれど。大向こうを張ったような曲でも編成でもなく、ゆる〜い感じの曲を演奏してみました、超有名な曲をお客様に媚びずに演奏できるようになりました、といった言葉は、彼がやりたい音楽の本質を語ってはいないと思う。こちらの理解力不足も手伝っているとは思うが、なんとなく迷いのようなものを感じる。

私がもっとも胸を打たれたのは、結局、おそらく譜面を見て弾いてはいなかったであろう、アストル・ピアソラの「忘却」だったように感じる。少なくとも短い期間いっしょに演奏する機会を持った約十年前のことを思い起こせば、あのバンドネオンの歌い方は、彼がどれほど大きくなったかを感じさせるに充分だったと思う。その技術は格段に上がっている。そして、そこにはピアソラへの深い愛情と尊敬が満ち溢れていたと思う。

「リベルタンゴ」は原調とは異なるkeyで、品良くアレンジされていたと思うが、それ以上でも以下でもない気がする。音楽はそこにはないんじゃないかなあ、みたいな。クラシック曲と異なり、ピアソラの曲は編曲(アレンジ)が許されているのだろうけれど、このように超有名になってしまった曲は、まず他編曲との差別化をすることにおそらくエネルギーが費やされるのだろう。んでもって、んならば、本人が演奏しているのが一番、みたいなことになってしまうから、なかなか難しい。

タンゴはすべての音符が譜面に書かれているそうだが、譜面があるか、ないか、が問題ではないだろう。即興演奏(この場合は、単純にコード進行に乗ってアドリブする程度の意)ができるか、できないか、もあまり大きな問題ではないかもしれない。

小松君自身が舞台上で語っていたが、例えば彼がブエノスアイレスの話をしたところで、その街の臭いのようなものに、喜多君という人間を重ねて話していた時、彼が本来持っているであろう、“タンゴ”という音楽へのきわめて身体的な感覚を、私は強く感じた。やっぱり私は「小松亮太のタンゴ」が聴きたい。って、まったく勝手なことを今日も書いているわねえ、私。ところで、北千住で生まれ育った小松君は、今もまだプロレスが好きなのかしら?




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