2月
2月1日(月) 二度目のMRI

早起きをして、生涯二度目のMRI検査を受ける。去年の師走、旅に出る直前に、再び少し眼が見えなくなったので、念のために。

ガンガン、という機械の音。なんとかならないものかと思うが、前回、耳を患って約半年後くらいに受けた時は、今日よりももっとその騒音に気が狂いそうになったことを思い出した。そう考えると、耳の状態はやはり発症当時からは変わっていることに気づく。

結果、年相応の小さな脳梗塞が数か所、脳の委縮が少し見られる、のだそうだ。やれやれ〜。



2月2日(火) ゴミ

私が暮らす町に大きな変化。全国で唯一残っていると言われていた緑色とオレンジ色のダストボックスが、今日から廃止になった。

箱は撤去され、戸別収集に変わった。三種類のゴミ袋を買わなければならなくなり、決まった曜日に、決められたものを捨てなければならなくなった。生まれてからこのかた、こうした経験が皆無の私にとっては、このうえなく不便だ。

40リットルの袋が10枚で800円の値段表示を見た時は、なんだかめまいがした。



2月3日(水) レベッカ

こきざみにふるえている
色鉛筆たち
美しい蝶の羽
かすかなモーターの音と共に

なんだか
わくわくわくわく

白い空間
天井から
グランドピアノが
さかさまに
ぶるさがっている

なんとなく
かわいそうなピアノ
そんなまなざしも送ってみる
あなたの運命だったのね
ことばを心のうちに

こんな姿のピアノを見ることなんか
きっとこの先ないにちがいない
と思ったので
ずいぶん長い間
見上げながら
じろじろじろじろ

壁の小さな札の文字
そこには
アナーキーのためのコンサート(1990年)
思わず
にやっとしたりして

双子の鴉(1997年)
羽は真っ黒
ゆっくりと
閉じたり開いたり

浮遊する魂(1990年)
と名付けられた譜面たちを見ていると

ガタッ

ふりかえると

ギギギッ

ピアノの翼が開く

次に
音をたてて
鍵盤が
いっせいに
外へ

なんてだらしない

わっはっはっは

笑ったのは
私ひとり

そこの人も
ここの人も
奇異な目で私を見ている

だって
笑っちゃうでしょう?

という私は
どこかおかしい?

しばらく笑いはとまらず
そこいらを歩きまわる

黒いインクが壁に
シュッシュッ

鴉の木(2009年)
その先端は開いたり閉じたり
銅色をした木はかすかに動いたり

次の部屋
足を踏み入れた途端に
めまい

瞬間
自分を疑う

世界はぐるぐる
鯨の腑の光(2002年)

ぴったりの音楽とともに
波紋をたたえる水
ゆらゆらゆらゆら

ふわふわした心持ちになって
外へ出る

両方の壁の奥に
二つの映像

顔に羽を付けた男女が近付く
くすぐったいかも

顔に鉛筆のマスクをかぶった女性が
顔を左右に動かしながら
線を描いている
疲れるかも

次は
関係

あなたに

ジェイムス・ジョイスのためのヌーグル・ドーム(2004年)
左の4本のナイフには
L O V E
右の4本のナイフには
H A T E

パン パン

この音の正体は
拳銃
向かい合った鏡の前に

ああ
そうなの
どこまでも
相互破壊の場(1992年)

それよりも
私のお気に入りは
時々ぶつかっては
ほんのかすかな音をたてる
双眼鏡のピンポン(2008年)

白い球ふたつ
時折
触れ合うことはなく
すれちがう
みつめあっていても

それはまったく規則正しくなく
風のいたずらのように
揺れて

決して予想できない
時の流れと
別れの予感が
そこに

いつまでも聴いていたい
あまりにも軽すぎる音に
にこにこしてしまう

再び大きな白い部屋に戻り
過ぎゆくとき(1990年/1991年)
ぼうっと
ただ
立って
見る

双眼鏡は
いろんな方向に
動いている

その上にある物体は
ジジジ
ジジジ
ジジジ
ジジジ
ジジジ

たまに
光線を放つ

床にはまるで捨てられたような
夥しい数のフィルム

涙ぐんでしまう
油断した

そして
再び
ピアノが
それはすてきな音を立てて
鍵盤をひっこめ
翼を閉じる

もう笑わない私
を発見する

それは
とても即興に似ていた

およそ15分ごとに
ピアノは姿を変えることを
学芸員のおねえさんに
聞いてしまったから

予測できると
同じことをくりかえしていることを知ると
途端に
驚きは色あせ
鮮度は落ちる

そして
意外性への探求が始まる

ついでに言えば
笑った自分がいたことを
私は恥じない
たとえ
20年も前の作品だぜ
と声が聞こえても

知らないこと
あらかじめの知識がないこと
を怖れてはいけない
などということまで学んだような

私はそういう出会いをしたのだ
ということが
そう感じたことが
なによりも大切



東京都現代美術館へ、レベッカ・ホルン展を観に行く。
(2月14日まで)

実にすばらしかった。

これらの展示作品のほかに、何本もの映像作品が上映されているので、すべてを見ようと思ったら、朝から閉館時間までかかるかもしれない。

この後、私はチェロの響きに誘われて、「ラ・フェルディナンダ」を途中から観る。画面には若かりし頃のミシャ・マイスキー。けれど食事をしているばかりで、演奏する姿は見られず。

次の作品は「ダンス・パートナー」。そして、そのまま、再び「ラ・フェルディナンダを観たら、ミシャの演奏姿を観ることができた。ちなみに、彼のセリフはひとこともない。

上下に動くテーブル。白い羽根のオブジェ。などなど。人間とオブジェが、同じ地平に生きている感じ。奇妙な空間。

この2本の作品だけでも約2時間余り。ここで、閉館の蛍の光が流れて、美術館をあとにする。

その後、出版社に勤めていた時の友人たちとスペイン料理で会食。こんな風にゆっくり話をしながら食事をするのは約30年ぶりのことだ。彼女たちは二人とも今も編集の仕事を続けている。ここにこうして会えていることをよろこび、互いを励まし合う。



2月5日(金) ポレポレ

東中野駅近くにある“ポレポレ坐”に初めて足を運ぶ。なんとなくすてきな空間だな、と感じる。ここに置いてあるアップライト・ピアノを下見するのが目的だったが、かくて、4月に、斎藤徹(b)さんの企画に参加することになった。



2月6日(土) 母校生

代々木・ナルで共演した人の中に、母校を同じくする人がいたことが判明。なんとなく、そういえば、そんな雰囲気が。というのが、なぜか不思議に感じられるのが同窓生というものだろうか。



2月7日(日) ボケ防止委員会

母の確定申告の準備をしながら、母と話す。今日は食事をしながら、日本の地図の復習をば。四国、九州、東北・・・と順番に都道府県を書き出してみたり。勝手に名付けて“ボケ防止委員会”。なんて、やがては自分も笑っちゃいられない日が来るのだ。



2月8日(月) 鳥のうた

新宿・ピットインで、坂田明(as,cl)トリオで演奏。「鳥のうた」を、このメンバーで初めて演奏する。



2月9日(火) いろんな話

伊藤大輔(vo)さんと来週のライヴのための打ち合わせ。内容、方法、これからのことなど、なかなか濃い2時間余りを過ごす。20歳くらい年齢が異なる若者と演奏する機会を得られ、私しゃ、幸せ者である。



2月10日(水) 二度目のよもぎ蒸し

ついこの間、大学受験を終えた姪っ子を誘って、2度目のよもぎ蒸しに行く。今回は60分に挑戦してみた。途中で腹式呼吸なども試みてみたら、なんだかものすごく汗をかいて、顔が真っ赤になって、お肌はすべすべになっていた。

でも、もうへとへと。帰宅後、そのまま30分間眠ってしまった。んだども、これ、確実に体脂肪が減る気がしている。




2月11日(木)  3つのB

去年から、J.S.バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』に取り組んでいる喜多直毅(vn)さんの演奏を聴きに行く。

前半は、そのJ.S.バッハの第二番のソナタとパルティータ。イ短調のソナタ(BWV1003)は二重音の連続で、演奏するのがとても難しそうな曲だった。ニ短調のパルティータ(BWV1004)は「シャコンヌ」も含め、曲の旋律や表現の陰影が、喜多さんの内側で共鳴している感じがした。

後半は淡路七穂子(pf)さんが加わって、ベートーヴェン作曲・ヴァイオリンソナタ第五番ヘ長調(Op.24)「スプリング・ソナタ」と、ブラームス作曲・ヴァイオリンソナタ第一番ト長調「雨の歌」。

バッハから解放されたからか、“春”はかろやかに訪れた雰囲気。喜多さんらしからぬ、という向きもあるかもしれないけれど、なんとなく、らしい、気もした。

一夜のプログラムとしてはお腹いっぱいのBBB。おつかれさまでした。



2月12日(金)  3人のダンサーとリハーサル

午後めいっぱい、日曜日の「 We dance 〜ピアノで踊る〜」のためのリハーサルを、当日の会場となる横浜市開港記念館にて。現場で、ということもあって、踊り手の具体的な動き方や、照明さんとの打ち合わせなどが詰められる。

照明を担当される方と出会ったのは、実は20年以上前のことになる。ORT(オルト)というユニットをやっていた時、当時“ブレヒトの会”に所属していた役者を紹介してくださったのが、この方だ。以降、私は彼らとかかわりを持つようになり、そういう意味では、この方は私の演劇あるいは言葉への扉を開いてくださった方の一人、と言うことができる。

ダンサーの方たち、三人は、実に三者三様。その始まり方も、客席や空間の使い方も、私とのかかわり方や要求も、まったく異なる。もちろん、彼らの身体表現、その在り様も、まったく違う。

ピアノの譜面台にはメモ書きしたA5の用紙が、各人に対して一枚。五線譜は載っていない。そこにまた少しメモが増える。

先月末のリハーサルの時もそうだったが、くたびれ果てた。これはたいへんなことを引き受けてしまったとは思っていたものの、・・・やっぱりたいへんだった。無謀、無茶、あり得ない・・・ぶつぶつとつぶやきながら、目黒に向かう。

夜は、金丸正城(vo)さんと沼上励(b)さんとライヴ。リキまずに、楽しくジャズをやる。



2月13日(土)  3人が自由学園で

午後、ひばりが丘にある自由学園記念講堂で行われるコンサート『言葉(ことのは)音楽会』に足を運ぶ。

空からは雨と雪がまざった粒が舞い降り、傘をさして歩く私を誘(いざな)う。土の湿ったにおいと木々の潤いが、駅から学校までの時間を少し特別なものにしている。って、途中で、ブルーマウンテン専門のコーヒー屋さんに入ってしまった私だけれど。

門をくぐると、なんだかとても懐かしい。この空気感はいったい何だろう?と思っていたら、校舎は瓦屋根の平屋で、木々がいっぱいの庭がある。舗装されていない道もある。私が学んだ昭和40年代の小学校のようだった。へえ〜と感じながら、おいしそうな手作りパンを売っていたので、もちろん買ってしまう。

会場は初等部の生徒やその父兄、一般客などで、既にほとんど満員の状態。床暖房になっているらしく、足元から温かい。舞台の左右には子供たちが描いた絵が飾られている。これらの絵がとってもいい。

オープニングは、学校で過ごす子どもたちの写真がスクリーンに映し出され、谷川賢作(p)さんと続木力(harmonica)さんが演奏するところから始まる。子供たちの笑い声が響く。それだけで、講堂の雰囲気は親密でなごやかになる。

そして、谷川俊太郎(詩人/朗読)さんが、割合に子供たちにもわかりやすい感じの自らの詩を読み、ある時は絵本のスライドをバックに朗読される。たいへん僭越ながら、私が初めてその朗読を聴いた約30年前くらいや、おそらく10年くらい前の時より、格段に朗読が上手になられていた。

それになによりも、やはりお人柄がそのまま伝わってくるようで、詠まれる(谷川さんはこう表記すると聞いている)詩は、私が初めて出逢った高校生の時の感覚を鮮やかによみがえらせた。78歳とは思えない若々しさと初々しさに、妙に心がくすぐられて、私が学んだ学校の校長先生の顔まで浮かんできてしまい、まるで高校生の頃に戻ったような気持ちになった。

ああ、この詩人と出逢ってよかったと、自分を振り返るような心持ちになる時間。そして、また思い出す。人生、どんなことが起きても、いつくしむように、生きていることを肯定する時にあふれる涙を、こらえきれない心の震えを、この人の詩から学んだことを。

途中で、「ことばあそびうた」を子供たちが「知ってる!」と言って、いっしょに読んだり。賢作さんが「すばらしい!」と顔を紅潮させながら言うのも、ごもっとも、のすばらしさ。また、いっぱい練習したと思われる谷川さんの詩を、子供たち全員で分担して朗読発表したり。それはそれはほほえましい。

その中に、一人だけ、おそらく先生から何度も注意されたんじゃないかなあ、と思える男の子が。声のトーンや質が、よく練習しました的な子供たちとは明らかに違っていた子のことが、私の心にはひっかかる。あの子の将来が楽しみ、と勝手に思う。

朗読と音楽の絡みのようなものはあまりなかった感じの内容だったけれど、言葉と音楽と、笑い声に包まれた、とてもすてきな土曜日の午後を過ごした。帰りには再びブルーマウンテンのお店に寄り、コーヒー豆を買って帰る。



2月14日(日)  踊る3人のダンサー

横浜市開港記念館で、「 We dance 〜ピアノで踊る〜」の公演。

世の中、ヴァレンタインデイとかいうものじゃあないの。ということで、調律師さんや、来てくださった20年来の友人たちに、心ばかりのチョコレートを持参する。

15時からは、山田うんさん。16時半から、鈴木ユキオさん。18時から、山田せつ子さん。それぞれおおむね30分くらいの公演を行う。

平野公崇(sax)さんに声をかけていただき、山田うんさんの公演で演奏したのは、2006年5月のことだったので、うんさんと共演するのは約3年半ぶりのことになる。その公演から一カ月半後に私は耳を患って約三ヶ月間仕事を休み、うんさんもまた闘病生活を経て、今日の出会いになっている。

うんさんとは、彼女がここのところこだわっているという、現在の自身の身体の在り様に、私が呼応あるいは共鳴する感じで、二人の間に親和的な合意と方向性が生まれたように思う。おおよそ3つのシーンに分けて構成されたダンスの最後に、自作曲「ホルトノキ」を弾いたことが、そのことを自然に物語っていると思う。

実直に自分と向き合っているうんさんのダンスは、以前のうんさんとは違って、より自由になっていたように感じる。それに、踊る動機や根拠が、動作にあるのではなく、身体の内側から生まれているように思えた。

赤いトイ・ピアノと赤いアコーディオンが舞台に登場することになったのは、鈴木ユキオさんの時。長い間使っていなかったトイ・ピアノはきれいな音が出ず、まことに申しわけないことをした。ちなみに、アコーディオンを使ったのは、一昨日のリハーサルの時に、私が自然にそうしたくなってしまったためだ。それは声と伴に。しかも舞台から降りて。

「ピアノで踊る」ということを真ん中に見据えて、あらかじめ全体の構成や流れを考え、会場の空間をめいっぱい使って、照明にもこだわった表現をされたのは、鈴木さんだった。この建物はとても古いので、電源の供給量が少ない関係から、照明についてはほとんど細工はできない状態ではあったのだけれど。

最初に私がトイ・ピアノを持って舞台にあがり、それを鈴木さんに渡すと、彼はそれを使ってダンスをする。フルコンのピアノの下に置いて、しばし遊んだり。やがて激しいダンスになって、彼は舞台から落下。

そして客席の椅子の上を、まるで虫のように這いつくばって移動する。ので、私もアコーディオンを持って、歌いながら、その姿を追って客席へ。

やがて、彼は会場の柱を叩き始める。私はピアノに戻り、ピアノを叩いたり、飛び上がって弾いてみたりする。しばらくすると、舞台に戻ってきた彼が近付いてきて、私が演奏しているのを何度か止めに入る。ちょっとだけ、私も踊っているみたいだ。

そのうち彼は離れて行き、表現の異なるダンスを、左右の移動によって表出する。その最後。もう一回行くかな、と思って、仕掛ける。が、彼は静止している。その姿は美しかった。が、あ、行かないのね、という時点で、「バンドのように終わる」と書かれたメモ書きは空に散り、どう終わるかがこちらに託された感じになる。かくて、静かにエンド。

最後は、山田せつ子さんと。事前に決めていないことがもっとも多く、そのほとんどが“即興的”だった。とは言っても、現場でのリハーサルで多くのことがわかったが、せつ子さんには既に聞こえている音があり、要求しているサウンドがあるように感じられた。対峙すること、孤独であること、イクところまでイッテ、などなど、抽象的なコンセンサスを求めてきたのもせつ子さんだった。

その終わり方は、時間が来たら、こちらの状態や内面などには一切関係なく、照明さんに照明を順番に落としてもらう、ということになっていた。それはせつ子さんが決めたことだった。が、一向に照明が落ちる気配はなく。事実、落ちることはなく、終わった。

せつ子さんが私が座っているピアノの椅子に腰かけ、「終わるわよ」と囁いたけれど、なぜか私は珍しく演奏をやめなかった。続行。それから、再び、せつ子さんは踊りながら上手へ移り、奥の壁を背にして、終わる。

一応、時計を持って出ていた私は、最後のほうの時間を、照明が落ちるのを待つ時間として、ちょっと無駄な音を出しているなあと思いながらも、こんな風に過ごしてしまった。それに、鈴木さんの時と同じような終わり方をしてしまった自分を情けなく思う。深く反省。

とにかく、三回、同じようにならないようにしたい、と思って演奏したが、さて、どうだっただろう?

私には体力と集中力がかなり必要な公演だった。が、このように一度に三人のダンサーの方たちと公演するような機会はもう生涯二度とないと思えば、気は楽になったし、とても面白かった。そして、多くのことを学んだように思う。

身体はモノを言う。あるいは、言わない。そして、身体を支える内実は、透けて見える。否、感じる。

加えて、これまでもダンスや舞踏、あるいは演劇ともかかわってきた私だが、身体表現というものは、これほどまでに受け手によって受け止め方が異なる、ということも知った。感想を聞けば、人それぞれ、あまりにも違うのだった。いい経験をしたと思う。



2月17日(水)  もうすぐ30歳になる君と

今月末で30歳になるという伊藤大輔(vo)君とデュオで初めて演奏。そんなこともあったからか、全体の流れは、大輔君のこれまでの生涯に出会った音楽を振り返るような感じになっていた。

前半は大輔君が自分で作った物語を朗読。彼は養護学校の子供たちのために、この“雨男”の話を書いたとのことで、本来、この音楽はすべて自分の声で作っている。が、今日は私が演奏してみる。

次に、私が朗読。私もまた“雨”にまつわるお話を。ちょっと夢幻能のような構成になっているエッセイを採り上げた。また、最近読み終えた、細野晴臣さんの著作『分福茶釜』(平凡社)からの文章も引用しながら、全体を構成してみた。

後半は、彼にとって大切な曲たちを。たとえば、彼が中高生の時に毎日6時間家に閉じこもって聴いていたというビリー・ジョエルの曲を、彼がピアノを弾きながら歌い、私はピアニカを演奏したり。ジャズに出会ってからの曲では、ストレイホーンやモンクの曲をやり、最後は彼の作詞作曲「ふるさと」で終わる。

アンコールは考えていなかったが、リクエストを募ったら、イーグスルの「デスペラード」。20年くらい前に夜店で好んで弾いていたことを思い出しながら、弾いてみる。「ジャズの人は普通弾けない」と大輔君にはなんだか少し驚かれたが、・・・そうなの?ともあれ、やっぱり名曲だなあ。

気持ちがまっすぐな若者との、いい一夜だったと思う。おばさん、否、おねえさんは感謝。こういう機会を得ることができて有難い。



2月19日(金)  悲報

友人の家が火事になり、彼女はお母様を亡くされた。そのお通夜に行く。始まる直前には、やはり火事に見舞われたお父様が病院からいらっしゃる。「なーんにもなくなった」と、つとめて明るく振る舞おうとする彼女と接して、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。お母様のご冥福を心から祈る。



2月21日(日)  三部構成のショパン

サントリーホールで行われた、仲道郁代(p)さんのピアノ・リサイタルに足を運ぶ。オール、ショパンというプログラム。さらに、三部構成になっており、第一部と第三部はフルコンのスタインウェイのグランドピアノで演奏するが、間の第二部ではショパンが当時所有していたモデルのピアノ(プレイエル製1839年パリ)を演奏するという意欲的なもの。

プレイエルで演奏されたのは、こんな私でも弾いた経験があるような、ショパンの曲の中でもかなりポピュラーなものだった。楽器の音程の不安定さや、ややチェンバロのような響きも伴うような音色が、私には心地よかった。モダン・ピアノより、音色の変化ははるかにまさっているようにさえ感じられた。

第三部は、ショパンの遺作から始められた。そのフルコンの音量のあつかましさに、なんだかもうお腹がいっぱいになった感じ。最後は、これでもか、これでもかとたたみかけるような演奏に聞こえてきた「ピアノ・ソナタ第三番」。

午後1時開演、終演は4時。途中に休憩が2回あるとはいえ、仲道さんは体力と集中力を要するコンサートをやり遂げられていた。

それに、なんといっても、かわいらしい。ピアニストはああでなくてはファンを獲得できないのだろう。なんとなく、愛する娘にピアノを習わせたい、目がほんわかハートになっているお父さんのため息が聞こえてくるようだ。

それにしても、ちょっと聴衆のレベルが低いと感じた。友人に聞けば、土日のマチネのコンサートの聴衆の質は落ちている気がすると言う。曲が終わり、ピアニストはまだペダルから足をはずしてはおらず、その余韻を聴いているのに、拍手をしてしまう人や、「ブラボー」と声を掛けるおじさんがいたりする。うーん、残念。

その後、渋谷スポーツセンターで行われている太極拳の表演会に行く。私が参加している教室で学んでいるみなさんの演技は既に終わっていたが、習っている先生の表演を初めて見ることができた。

夕方4時半過ぎから約1時間余り、次々に先生方の演技を拝見する。いいなあと感じる人もあれば、なんだか格好だけで剣を振り回しているようにしか見えない人、ほかに、空手や合気道、居合い抜きなどの日本の武術も初めて見ることができた。なかなか面白かった。

まるで音楽と体育の日のようだった日曜日。最後は沖縄料理でシメ。



2月22日(月)  3人で韓国鍋

午後、青山で、本橋成一さんの写真展「サーカスの時間」、さらに、小山利枝子さんの個展に足を運ぶ。

小山さんの作品は、また大きく変化していた。これまででもっとも温かく、やわらかく、ふわふわとしているように思えた。以前のような厳しさは、その動く線(ベクトル)にはまったく感じられない。きっと、今はお幸せなんだろうと思う。

その後、新大久保にあるお店で、友人たちと韓国鍋。それから、ケーキとコーヒー。モンブランは私にはちょっと甘過ぎたかな。



2月25日(木)  足腰

午後、太極拳の教室。“歩型”をやっていると、もう汗だくになる。すっかり足腰が衰えていることを痛感する。








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