5月
ごがつ


5月6日(金) 高島野十郎展

少しだけ雨模様の日。

画集でしか知らなかった孤高の画家、高島野十郎の絵を観に、目黒区美術館に足を運ぶ。没後40年を記念して開催されているもので、たくさんの作品をまとめて観ることができた。

野十郎は、終生画壇と交わらず、独学で絵を学び、独自の写実表現を追求し、晩年は自ら設計した質素なアトリエで、電気、ガス、水道ない環境で創作を続けた作家だ。さらに、ほぼすべての仏教経典を読んでいたらしい。

やはり、とても、すばらしかった。実際に画家が描いた絵をよく観ることは、とっても大事だと、あらためて思い知った。

野十郎は1890年(明治23年)生まれ。1975年(昭和50年)に85歳で亡くなっている。展示は主として年代順に見られるように順路が作られていたが、月や蝋燭の作品たちは一室に集められていた。

中でも、私の眼を釘付けにして、三度も足を運ばせたのは初期の作品。大正10年以降の大正期に描かれた、野十郎の30歳代前半の作品だった。圧倒的な暗さと深さに満ち溢れていて、この画家は、いったい、何を抱えてしまったのだろう?と思わせる作品たちが、逆に、私たちに問いかけていた。

そして、やはり、月、と、蝋燭。以来、月が浮かぶ夜空を見上げるたびに、野十郎の絵が同時に脳裏に浮かぶようになった。蝋燭は何枚も描かれている。今回の展示においても、一室全部が蝋燭の絵だったが、どれもみな、違う。たくさんの炎が揺れる部屋。

ところで、私は野十郎の作品からインスパイアされて曲を書いている。画集を持っていただけにもかかわらず、彼の絵を見て、なぜそのタイトルを付けたくなったのか、曲を書きたくなったのか、私にもよくわからないのだけれど。ともあれ、彼の絵から、「割れた皿」「ろうそく」という作品は生まれている。

私が書いた曲「ろうそく」は、実はレコーディングの前日にできたもので、ライナーノーツにも書いたように、「その光の向こうに、大切な人たちの顔が浮かんできて、ほぼ瞬間的にできた」ものだ。

そして、野十郎の作品「蝋燭」もまた、ほんとうにごく親しい人のためにだけ描かれたものだったことを、私は曲を書いた後、最近になって知った。

不思議だけれど、多分、何かが響き合ったのだと思う。



参考:目黒区美術館 高島野十郎展(6/5まで)
(この後は足利市立美術館で開催される予定)




5月8日(日) 若い人たち

公園通りクラシックス(渋谷)へ、神戸在住の日吉直行(p)さんがリーダーをつとめる“CANOUPU ENSEMBLE”のライヴを聴きに行く。メンバーは、kajon(vo)さん、大石俊太郎(sax) さん、野津昌太郎(g) さん、田嶋真佐雄(b) さん、ユカポン(per)さんという、若く、才能あふれる人たち。

終演後、感想などを求められる雰囲気になったので、アンサンブルのことなどについてお話をさせていただいた。意見がいろいろあることはとてもいいことだと思うし、それは可能性であり、次へのステップにつながると思う。

それにしても、こう、みんなに囲まれると、自分もそれ相応に歳をとっているのだなあと、妙な感慨にふけってしまった(苦笑)。新宿ピットインの朝の部にドキドキしながら初めて出演してから、ちょうど30年。我ながら、よくここまで生きてこられたものだと思う。




5月12日(木) 負傷

先月25日、ヨーガ教室が終わった後に、和室の上がり框のところでころびそうになり、ころばぬようにと、目の前の壁に右腕を強く打ってしまった。幸い、ころぶことは免れたが、その後、どうも右腕の調子が悪い。ピアノを弾くのには腕を上げ続けなければならないのだけれど、上げていられなくなるのだ。

その翌日、すぐに整形外科に行ったけれど、医者はレントゲンを撮り、頭痛薬(痛み止め)と、その頭痛薬の副作用のための胃薬、インドメタシンを処方しただけで、当然の如く、何もしてくれない。右腕を触ることもなく、診ようともしない。

以降、どうも様子があやしいので、今日、整体に行ったら、頸の右側がむちうちで腫れている、全体重を強く受け止めた右肩は前にずれている、それにより、右腕がねじれている、と言われる。若い看護師のお姉さんが、私の腕のどこが痛いのかも知らないくせに、ほんの少しだけインドメタシンを塗る。明らかに点数稼ぎだ。

泣きそうになった。そんな大事になっているとは思ってもいなかった。右腕だけだと思っていたら、むちうちとは、これ、いかに、という感じだ。

いやはや。ころんで骨折しなかっただけでも、よしとしなければ、バチが当たるというものだろう。養生、養生、といっても、今月は月末の公演『カバレット 阿部定の犬』の稽古も入っていて、全然休みがないのだった。涙。




5月14日(土) 非戦を選ぶ

『非戦を選ぶ演劇人の会』の役者さんたちと共に、憲法九条を守る、反戦を趣旨とした朗読ライヴを行う。下北沢・レディージェーンにて。

一度、事前に、今回の中心にいる女優・岡本舞さんと打ち合わせをしたものの、朗読と音楽を合わせたのは、今日、本番の少し前。少しの時間で、役者さんたちの声の感じや表現の仕方を探り、全体の音楽や音を考える。

やはり駆け引きが面白い。私の奏でる音楽に乗って感情移入する人もいれば、ある一定の距離を絶対に崩そうとしない人もいる。

ともあれ、憲法のこと、非戦のことに思いを馳せた時間を持った。

あまりにもベタだったが、「死んだ男の残したものは」も朗読される。これは作詞 谷川俊太郎、作曲 武満徹による作品だが、朗読だからといって、「墓石」を「ぼせき」と読んではいけないだろう。なぜなら、これは“歌”だからだ。と、役者さんに伝えるのを忘れた・・・。

夜は、急に頼まれたトラの仕事で、池袋へ。右腕がピンチ。




5月28日(土) 言葉と音楽の関係

26日&27日に行われる公演『カバレット 阿部定の犬』の稽古の日々の中、19日には小室等(歌)さん、坂田明(as)さんと共演する、“ゆめ風基金”(障がい者支援をしているNPO法人)のコンサート、20日は蜂谷真紀(vo)さんとのデュオのライヴをこなし、『阿部定の犬』の本番に突入。

25日に整体に行ってかなり揉まれた後、右腕は猛烈に痛く、だるくなり、ペンも満足に持てなくなる。

その翌日、カバレット公演の本番のときには、会場が地下で空気があまり良くなく、酸素が薄かったせいもあって、GP時から本番にかけて、頭痛がひどくなる。頸のむちうちらしきところからずーんと重い。なんとか本番が終わるまでこらえ、初日乾杯を形だけした後、たいへん申し訳なかったけれど、早々に帰途に着く。

が、電車に乗ることができず、タクシーの中でビニール袋を片手に持ちながら、横になって寝て帰る。(状態としては、ソロCD発売記念コンサートを行ったときに襲われた猛烈な頭痛の状態(結局、救急車を呼んだ)の二歩くらい手前の状態。)お札が一枚、ひらひらと散っていった。

これらの症状は、多分、好転反応、と思いたい私。



というようなことがあったわけだけれど、この『阿部定の犬』の脚本を書いたのは佐藤信さん。この約40年前の芝居の脚本は、正直、難解だと思う。でも、何か、とてもすてきな日本語だと思うところがたくさんある。

たとえば、歌詞のひとつに、

小指に赤糸 結びつけて
ひとりで約束 汗を拭う夕方に ありふれた話
東の風が吹き
もし夜が明けても 星が消えなくて
川の真上にあったなら
あたしは居ないわ

小さな黄色い花をつけた
くさむら裸足で 走っただけのことなの ありふれた話
折り紙の飛行機を
もし飛ばしてみて 見えなくなるまで
空の向こうに行ったなら
あたしは居ないわ

これはカバレットでは「あたし」役をやっている女優・新井純さんが歌うのだけれど、これがなんだかとってもいいのだ。

「あたし」は惚れた男のちんぽこをちょん切った、実に生々しい女性なわけだけれど、この歌はそんな女性の不在あるいは所在なさを見事に描いていると思う。

ここで『阿部定の犬』のことを詳しく書くことは差し控えるけれど、この戯曲の特色の一つとして、佐藤信さんがB.ブレヒトとK.ヴァイルによる音楽劇『三文オペラ』のために書かれた曲、すなわち、ヴァイルが作曲したもの(旋律と編曲)を、そのまま用いて、それに日本語の言葉をあてはめていることが挙げられると思う。

上記の歌詞は「ソロモンソング」の旋律にあてはめられている日本語だが、『阿部定の犬』は『三文オペラ』を翻案したものではないので、ここでうたわれる歌は、元のブレヒトの歌詞の内容とは大きく異なっている。

なので、実は演奏者として一番困ったのは、ヴァイルが編曲している譜面をほぼそのまま弾くことにいささかの抵抗を感じたことだった。それはたとえば「大砲ソング」や「海賊ジェニー」などに感じたことだった。大砲の音を想起させる強いsfzのたった一音が、佐藤信さんの歌詞と合わないように思えたのだ。それを演奏でどう表現するか?これは最後まで迷った。そして、今もなお、実は、私のなかでは解決できていない。

もともとあるメロディーに、別の歌詞、しかも日本語を付ける、という作業から生じる、音楽的な矛盾のようなものを感じているのは、正直なところだ。



そして、28日には、辻康介(歌)さんがリーダーをつとめる、ネーモー・コンチェルタートのコンサートを聴きに、東大近くの求道会館に行った。これは彼らが出したばかりのCDブック『おとなのための俊太郎』(アルテスパブリッシング)発売記念コンサートだ。

本のほうは谷川俊太郎さんの詩集として読めるようになっており、それに辻さんたちのCDが付いている。ユニットのメンバーは、鈴木広志(sax)さん、根本卓也(チェンバロ)さん。若く、すばらしい才能のある人たちの集まりだ。

チェンバロの音はとても小さいので、サックス奏者の鈴木さんはほとんどピアニシッモでのアプローチかと思われ。生声で歌う辻さんとのバランスをとるのが、やや難しかしそうな印象を受けたけれど、音楽はきちんと聞こえてきていたように思う。その編曲、取り組む姿勢はすてきだと思った。

たまたま私が座ったベンチ椅子には、詩人・谷川俊太郎さんが座っていて、前半でお帰りになったけれど、楽しそうに聴いておられた。

このCDブックは『阿部定の犬』とは逆で、谷川さんの詩に、メンバー3人がそれぞれ好きな詩を選んで勝手に曲をつけた、というものだ。谷川さんは「鉄腕アトム」や「死んだ男の残したものは」などのほか、校歌も含めて、歌のための詩をたくさん書いていらっしゃるけれど、彼らが選んだ詩は、文字通り、もともとは詩だ。

つまり、歌われることはあらかじめ想定されていない言葉たちに、彼らはメロディーを付けたり、朗読したり、編曲をしていることになる。

ここには、自分の詩が他人に歌われることをゆるしている谷川さんの懐の深さがある。こんな風に、谷川さんご自身、そしてその詩は、いつも世界に開かれている。「いろいろあっていい」(「みんな違ってみんないい」という詩を書いたのは、金子みすずさん)という認識を、実社会で実行するのは、実は案外たいへんだったりすることもあると思っているのだけれど。

でも、誤解を恐れずに言えば、新しい詩集を手にして、その詩を読んだ私は、あらためて確信した。谷川さんの詩は、紙に印刷されて、個人の目で読まれるものだ、と。せいぜい読まれる(朗読される)ところまで。そして、それを自覚しているのは、おそらく、谷川さんご本人ではないかと思う。

これは、辻さんたちの歌や演奏が良いとか悪いとか、音楽がどうこう、ということではけっしてなく、そうしたこととは別の次元のことだ。

谷川さんの詩は、詩の言葉は、自明の理のように、自立している。

たとえば、「あなたはそこに」という詩の最後のほうで、

ほんとうに出会ったものに別れはこない
あなたはまだそこにいる
目をみはり私をみつめ
くり返し私に語りかける
あなたとの思い出が私を生かす
早すぎたあなたの死すら私を生かす
初めてあなたを見た日から
こんなに時が過ぎた今も

この詩を読む人の精神状態にもよると思うが、これらの言葉は、目で読まれて、その人心の深いところに届く。涙さえ浮かんでくる。

が、これらの言葉に旋律が付き、歌われると、何かが失われる。多分、それは歌われる言葉たちは空中に拡散していくからだと思う。(無論、音楽家の聴衆への届け方、さらに、私の聴き方、耳の開き方にもよると思っているけれど。)文字を読む行為は、言葉と対峙することで、その人を自身の内側へと強く導く。ベクトルが違う感じがするのだ。

この日の体験は、高校生のときに谷川さんの詩と漱石の小説に出合って、大学を文学部に決めた私にとって、あらためて谷川さんが書く言葉の力というものを認識させてくれたものになった。

ちなみに、このCDブックの宣伝チラシには、

「ネオ・ラジカル古楽歌謡」のネーモー・コンチェルタートが、国民的詩人・谷川俊太郎のダークサイドをうたった15曲を収録したCD+詩集

と書かれている。

確かに、彼らによって作られた歌の数々は「可笑しくて、怖くて、エロティックな」谷川さんの詩の世界かもしれない。

ま、売るためのチラシだから、こういう表現になることはよくわかる。けれど、谷川さんが21歳のときに出した処女詩集のタイトルは『二十億光年の孤独』だ。

多感な高校生だった私が、谷川さんの詩を読んで授業中に泣いてしまったのは、この詩人が抱えている深い孤独、わかりあえない愛、そしてもっと実存的なかなしみに満ち溢れていたからだと思われ、その意味では、個人的には「ダークサイドをうたった」という表現に、非常に違和感が残る。

ほんとうの闇を抱えた人間、暗闇が見えている人間だけが、おそらく、人に希望の光や風を与えるのだと思う。



追記
『カバレット 阿部定の犬』の公演は、伊勢志摩サミットの開催日とちょうど重なった。そして、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れたのは27日のことだった。

あのオバマ大統領の17分を越える演説を、多くの日本人が好意的に受け止めたようだ。彼が大統領になったときもそうだったと聞いているが、あの原稿を書いた人物がいる。相当頭が良い人に違いないと思う。

言葉はおそろしい。アメリカは核開発を進めているとも聞く。何が真実で何が嘘なのか、もはやマスコミによる報道も、自分でよく考えなければならない。



というようなことをちょいと考えた、五月末の私だった。というか、今年の五月は、GW明けから、ずいぶんたくさんの言葉たちと対峙する時間を持つことになった。頭も頸も右腕もくたびれ果てた(苦笑)。










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