11月
じゅういちがつ


11月4日(金) 3つのコンサート

11月2日(水)、オペラシティ・近江楽堂で行われた、山本亜美(二十五絃奏者)さんのリサイタルへ。

11月3日(木・祝)午後は東京文化会館・小ホールにて、アントネッロ(古楽)の定期公演、夜は両国門天ホールにて、中村和枝(現代音楽 ピアニスト)さんのコンサートへ。

3つのコンサートを聴き、私は自分の耳と姿勢を正された。


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山本亜美さんは、筝としては比較的新しい(25周年)二十五絃という楽器の可能性を探求し、さらに「声」も常に問題にしながら活動を続けている。

この公演では、森亜紀さん、湯浅譲二さん、高橋久美子さん、新実徳英さんといった作曲家の方たちの作品が演奏されたが、湯浅さん、高橋さん、新実さんの作品には歌が伴っている。

高橋さん、新実さんの作品は、歌手・青山恵子さんが歌われたが、湯浅さんの作品は山本さん自身が筝を弾きながら歌った。不思議なもので、演奏者と声を出す人が同じか違うかで、音楽の位相のようなもの、その場の空間がまったく異なる。

また、湯浅さんは三好達治の詩、高橋さんは北原白秋の詩、新実さんは万葉集を引用した作品だった。いずれも日本の近代詩、古典文学、そして文語体や古語によるものだ。

若者はもはや夏目漱石を原文では読めないと言われてから久しい現在を想うと、日本語の美しさや響きといったこととは別に、正直、なんだかよくわからないのだけれど、何か違和感を感じる。それはおそらく言葉と歌い手の距離によるのではないかと想像されるが、今はまだよくわからない。

なお、私には、前半に演奏された森亜紀さんの新作『3つのスケッチ』が、スケッチごとの方法論が明確で、作曲家のイメージする音像と二十五絃の響きが素直に響き合っているように感じられた。

この日の最後にも、CDに収められている森亜紀さんの『つむぐ』が演奏されたが、森亜紀さんは、良い意味で、筝奏者・山本亜美さんに寄り添い、彼女に合った作品を書いている作曲家だと思う。

私と筝奏者とのかかわりは、斎藤徹(b)さんのユニットでの出会いに始まる。今からもう25年以上前のことになる。弦をはじく楽器は筝に限らず、三味線、琵琶、ヴァイオリンなどの弦楽器やギター、ハープといったものが無数に挙げられると思うが、その表現として、弦がうわ~んとうなる感じや、シュッと空気を切るような音が出たりなど、筝という楽器の表現に、私は永遠の憧れを抱く。ギターのチョーキングもそうだけれど。

ならば、半分は弦楽器のピアノでやってみればいいじゃない、と実はいつも思っている。でも、私はいわゆる内部奏法をすることに躊躇する自分を見る。理由は、常に、自分の楽器ではない、からだ。なので、1980年代に“ノイズ”の洗礼を受けた私は、自分の立ち位置や役割として、別の音楽の表現方法を試みている、つもり。そして、それはごく初期の「ORT」を始めたときから変わっていないかもしれない。


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アントネッロの定期公演。今回は『エソポのハブラス』と題された、「イソップ寓話」から発想され、企画構成されたもの。

時代は豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた安土桃山時代。ポルトガルからやってきたイエズス会の見習い宣教師・ゴンサロと、武士の妻でキリシタンの竹田イネスが、肥後の八代で出会ったところから物語は始まる。

その際、宣教師はグーテンベルク活版印刷機を日本に持ち込み、それによって「イソップ寓話」(ローマ字表記)は印刷されたらしい。今から400年以上も前の日本人がイソップ物語を読んでいたことになる。

今回の公演は、その寓話が面白おかしくはさまれながら、ゴンサロとイネスの恋心も歌われつつ、秀吉によって弾圧されたキリスト教徒たちのかなしみも描かれた音楽劇だった。

いやあ、とっても楽しかった。面白かった。ユーモア、そして深いかなしみも、しっかりと伝わってきた。さらに、右傾化が加速化している現代へのシニカルな台詞もピリリとあったり。台本、構成、演出がしっかりとしていて筋が通っており、歌、演奏もすばらしかった。スタッフも含め、かかわられたみなさん全員にありったけの拍手を送りたいと思う。

演奏は、阿部雅子(ソプラノ)さん、中嶋克彦(テノール)さん、演奏はアントネッロのメンバー、濱田芳通(コルネット、リコーダー/音楽監督)さん、西山」まりえ(チェンバロ、ハープ)さん、石川かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ)さんの3人のほかに、濱元智行(per)さんが加わって行われた。

阿部さんと中嶋さんの声は、よく響き合っていて、まっすぐに届く。ちょっとした芝居もわざとらしいところがなく、とても自然な感じで、ナイスなキャスティングだと感じた。

濱田さんは様々な楽器を演奏されていた。コルネットやリコーダーはもちろん、今回はバスクルムホルンやほら貝も!脚本家あるいは演出家からの要請だったかもしれないが、濱田さんは嬉々としてそれらの楽器も演奏されたような気がする。

まりえさんのハープによる歌の伴奏(一応、伴奏と書くけれど、もっと歌に対峙した旋律と言うほうがふさわしいと思う)は、ほんとうにすばらしい。あんな風にはなかなかできるものではない。とても勉強になる。

石川さんが演奏する、あの深く太い音色のガンバは、常にアンサンブルの底辺をしっかり支えている。

そして、私がいつも感銘を受けるのは、「なぜ自分はこういう音楽をやっているのか?」という問いかけを忘れない濱田さんの姿勢だ。それは濱田さんに内在する即興演奏への思い、今を生きようとする魂のようなものにも現れていると、私は思っている。

実際、歌手が前面にいると、どうしてもお客様の拍手は歌手のうたの終わりに起こり、器楽演奏だけのときは拍手が起こりにくい感じになる。今回の公演もそういう感じではあったけれど、いわゆるジャズで言うところの、奏者が順番にアドリブをまわしたり、パーカッションとかけ合いをしたり、といったことが舞台上では行われていて、それは実に生き生きとした演奏だったと思う。

歌手が台詞を言い、ちょっと芝居をする。私はすてきな趣向だと思う。自分の中にある音楽劇への思いが非常に刺激された。死ぬまでに、もう1度、自分はやらなければいけないと思う。それには題材を探さなければならないが、少しずつそういうアンテナを張りながら生活しようと思う。

それにしても、こういう音楽劇のとき、演奏していないときの奏者の佇まいや視線というのは、かなり重要だと再認識した。何もしていないときの、その場にいる居方というのは、思いの外に客席に伝わっている。私自身も生演奏による演劇に長くかかわってきているので、そのことは痛いほど体験しているつもりだが。

(以前、文楽を観に行ったときもそう思った。御簾の向こうの若い三味線方が肘をついて舞台を見ているのが客席から見えたのだ。その態度はやはりよくない。みんなで創り上げている舞台の空気が変わるからだ。)

振り返れば、私は若いころから演劇と深くかかわっている歌手との付き合いがあった。巻上公一さん、澄淳子さん、酒井俊さん、カルメン・マキさんなど。ただ歌をうたうだけではない方たちとのかかわりは、当然、言葉への思いや言葉との距離を、常に考えさせられた点において、わたしにとってはとても貴重な時間だったとあらためて思う。


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中村和枝さんのコンサートは『くりかへす悦び 2』と題されたもので、A.ミンチェク作曲「茎」、黒田崇広作曲「グラデュアリズム」、そしてピアノとヴォイスによる松平頼暁さんによる「デュアル・ミュージック」の3作品が演奏された。

さらに、休憩をはさんで、これらの3曲がもう一度演奏されるという、ちょっと変わった珍しいコンサートで、私には初めての音楽体験となった。

いやあ、まず、譜面台に“i-pad”が置かれているコンサートをついに初めて体験した。ページをめくる操作は、画面に手で触れたり、足のコントローラーで行っていた。ああ、そういう時代なのね・・・。

でも、これ、15分とか比較的短い時間だったらいいかもしれないけれど、私のように眼の弱い人間には、ちょっとつらいかもしれない。とはいっても、ジャズの現場でも、だいぶ使われているとも聞いているけれど。

ミンチェクさんの作品はソステヌート・ペダルを多用した音楽だったかと思う。余韻や倍音を楽しむ感じだろうか。

黒田さんの作品は、内声が微妙に変化するクラスター的な和音が連続かつ不連続的に鳴らされるような作品。音の区切りのときに、中村さんがその両肘を円を描くように外側に広げて弾いている演奏の仕方に、少し不自然さを感じる。なんらかの理由があるのだろうなと思う。

(後日、中村さんから伺ったことによれば、黒田さんの譜面には非常に細かい指定が書き込まれていたらしく、あのような演奏方法になったのは、作曲家の要求に応えた結果とのこと。さらに、本番に作曲家が来て、演奏家にいろいろ意見を伝えたらしい。)

今年で85歳になられるという松平さんの作品は、中村さん自らが「声とピアノのために曲を書いてください」と松平さんにお願いしたものだそうだ。その責をまっとうするように、中村さんはヴォイス・トレーナーにもついて、練習を重ねたと聞いている。すばらしい努力だと思う。

事実、声はよく出ていたと思うし、挑戦している中村さんの姿はとても美しかった。そのタッチは明確で音はよく立っていて、曲の理解と、曲への愛情が伝わってくるようだった。

個人的には、私は松平さんの作品にもっとも魅かれた。以前にも、橋本晋哉(チューバ)さんが演奏された、松平さんの独奏曲を聴いたことがあるが、それも面白かったことを思い出す。

といっても、ヴォイスとピアノということで、どこまで記憶を遡れるかなあと思ってたどってみたら、私がジャズを習っているころに聴いた、ローレン・ニュートン(vo)さんと佐藤允彦(pf)さんのデュオに至った。無論、それは即興演奏だけれど。あるいは、メレディス・モンクとか。

そして、問題は、1つのコンサートで、2回、同じ曲を演奏するコンサートということ。これは中村さんと作曲家・山本裕之さんによるユニット“クラヴィアーレア”が5年前にも試みたことだそうだ。

同じ曲を2度演奏するなんて、と正直思った。おおよそ即興演奏にかかわっている人間が好むことではないだろう(笑)。仮に、同じ日に同じ曲を2回弾かなければならなかったら、私ならそれぞれまったく異なった世界観を創り出すことに意識を持っていくだろう。この「同じことをやりたくない」という気持ちがどこから湧き出て来るのかよくわからないのだが(苦笑)。

実際、少し退屈に感じることもあった。けれど、思いの外にいろいろ気づかされることに気づいた。それはビミョーな変化かもしれないけれど、作曲家や演奏家にとっては大きなことだったりするかもしれない。ヘンな言い方をするが、実に“現代音楽的”だと思う。

黒田さんの曲は、2回目のほうが倍音や音の響きの伸びがあって、クラスターの音自体はふくよかに、全体に豊かな響きになった印象を受けた。

(後日、中村さんから聞いたところによると、1回目と2回目ではタッチを変えたそうだ。タッチを揃えず、少しラフに弾いたほうが響きが豊かになる、というのも、とてもピアノという楽器らしいと感じる。)

松平さんの曲は、中村さんが楽屋から出て来るときに、2回目は首からホイッスルをぶるさげているのが見えたので、あ、これは1回目とは違うことをやるのだなと思った。事実、歌詞が異なっていたし、演奏の雰囲気もなんだかちょっと違って聞こえてきた。

(後日聞いたところによると、この作品はいわば1番、2番となっているらしく、歌詞が異なっているために、練習は相当たいへんだったらしい。譜面も2部、作ったそうだ。また、テンポの指定も異なっていたとのこと。)

今日と昨日が違うように、1時間前と今とでは違う。このような場合、楽器の状態も変わるし、聴衆の気持ちも変わる。無論、弾き手のモチベーションや気持ち、体力も違うだろう。

ということで、このコンサートに付けられたタイトル通り、“くりかへす悦び”にまんまとひっかかった私だ(笑)。なぜ「へ」になっているのかはわからないけれど。

付け加えると、実は、中村さんは1回目のときに一番最初に演奏したミンチェクさんの作品を、2回目に演奏することを忘れていた(笑)。同じ曲を1日に4回も本番で弾くには、相当の体力となによりも集中力を要することは言うまでもないだろう。ご本人は少し落ち込んだらしいけれど、ほんとうに忘れていた中村さんの一瞬の立ち姿は、私にはとってもチャーミングに感じられた。なんくるないさ~。

それにしても、秀吉の時代と現代をワープしたような一日になった。いろいろあって、音楽はほんとうに面白い。

















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