ああ、ブラームス
〜「自立せよ」とブラームスは言った〜
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譜面を手に取って (2004年7月25日 記) |
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この情景は、去年(2003年)11月17日、久しぶりに銀座・YAMAHAの地下にある譜面売り場へ足を運んだ時のことです。これまで音楽関係の書籍を買い求めることはあったものの、こんなに音符が書き込まれている、いわゆるクラシック音楽の譜面を手にするのは何年ぶりのことだったでしょう。結局、いくつかのヴァージョンの中から、どうせだからと第一番から第三番までが収められている分厚い譜面を買い求めました。消費税込み8610円なり。 この年の秋、東京・大泉学園にある“ジャズ地酒とおでん(お料理)”のおいしいお店“inF”の店主である佐藤浩秋さんが「ブラームスのピアノ三重奏 第一番」を演奏してみませんか?と私に尋ねました。佐藤さんは聞かれている音楽の幅がたいへん広い方で、殊の外、この第一番が好きなのだそうです。 私はけっこう重厚なブラームスが好きで、武満徹の作品(今のところ、私は自分の葬式には「弦楽のレクイエム」を流して欲しいと思っている)やドイツのアンサンブル・モデルンが演奏する21世紀に作曲された現代曲などに次いで、割合に愛聴していたのがブラームスの交響曲でした。 そもそもは、この年の4月、その佐藤さんのプロデュースによる、翠川敬基(cello)さん、太田惠資(vl)さんと私との3人のセッションが組まれたことがきっかけでした。その日の演奏はすべて即興演奏でしたが、「これはいわゆるピアノ・トリオではないですか」という話になったのでした。 私は太田さんとはこれまでもデュオで、あるいは酒井俊(vo)さんの“四丁目ばんど”などでいっしょに演奏してきています。太田さんは日本のヴァイオリニストの中でも稀有な存在として輝いている人で、幅広い音楽性と対応力を持っている、才能と力のある演奏者です。が、この日の太田さんは「いつにない感じのヴァイオリン奏者になっている」ように感じられ、「今晩のように様々なヴァイオリンの奏法を駆使していた太田さんを初めて聞いたように思う。」と、私は先の日記に記しています。 翠川さんとは比較的大人数のセッションで過去1、2度共演したことがあったと思います。私にとっては、いわゆる日本のフリージャズ界の第一世代にあたる第一人者で、自分などまだまだ共演することなどできない大先輩という認識がありました。この日、翠川さんは生音で演奏され、「ピアニッシモから強い音まで、表情豊かに演奏される。チェロという楽器のなんとも言えない中低音域の深く柔らかい響きに魅了される。」と私は書いています。 私はといえば、いつものように他人の音を聞き過ぎる自分を反省しています。さらに2本の弦楽器の美しい響きに魅せられ、諸所自分は演奏しなかった状態の中で、ピアノという楽器の権威的・支配的な性質を少々疎ましく思いながら、自分のピアノの表現力のあまりのなさに嘆いています。 そしてその後、佐藤さんと太田さんの間で、クラシック音楽をやってみようという話が盛り上がったとのことでした。それはお酒がしこたままわっていた時の話だったらしいのですが。 また、私もこの年、このお店で毎月一回行ってきたデュオ・シリーズで、クラシック音楽畑にいる人たち、例えば平野公崇(sax)さん、村田厚生(tb)さん、松永敦(tuba)さん、神田佳子(per)さんといった人たちと演奏する機会を得ていたことも、今回のことにつながっていると言えるかもしれません。暮れ頃に、来年は何をやろうかと佐藤さんと話をした時の“来年の展開”がこれになりました。 こうして最後に、それまでもクラシック音楽を演奏されてきている翠川さんの参加の承諾が得られて、この3人のメンバーが決まりました。 これが、今回のこと、すなわち“ブラームス・プロジェクト”と名付けられた、公然の秘密のプロジェクトの始まりです。目的はブラームスの「ピアノ三重奏曲 第一番」を演奏すること。約半年後に。ほんまかいな〜。 |
第一章 なんと、人間的な |
揺らいでいる (2004年7月29日 記) |
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かくて、自分の誕生日の三日前に手にした譜面により、それからの私が約半年間にたどるであろう、あるいはたどるべき道ができたのでした。この歳になって、このような状況に立つことになろうとは思ってもいませんでした。なにせ人前でクラシック音楽を演奏するなどということは、高校二年生の時のピアノの発表会以来のことで、約30年ぶりということになります。私の頭の中は、もう???でいっぱいでした。 でも、いつまでも???としていても仕方ないので、まずは資料。どんな曲なのかを、ブラームスという作曲家のことも適度にちゃんと知っておかなければなりません。足を運んだ先は図書館やCD屋さん。ジャズ講座(東京・府中市で’97年から5年間に渡って行った講座)を担当した時にお世話になった職員が図書館に移動になっていて、「ブラームスですかあ?」と言われます。CD屋さんのお姉さんにはあれこれ質問しまくって、「こんにちわ、今日は何をお探しですか?」と、笑顔で尋ねられるようになってしまいました。 最初に手にしたCDはジュリアス・カッチェン(p)、ヨーゼフ・スーク(vl)、ヤーノシュ・シュタルケル(cello)の3人が演奏する音源でした。これを聞いてすぐに口に出たのが「だめだ、絶対できない」とため息でした。譜面を机の上に投げ出し、私の目は虚ろに空中を泳いでいました。 次に入手したのがデイム・マイラ・ヘス(p)、アイザック・スターン(vl)、パブロ・カザルス(cello)の3人が演奏しているものです。1952年にモノラル録音されたもので、ライナーブックには「正規録音盤からCD化していますが、古い録音につきお聴き苦しい箇所がございます」などと書いてあります。 ところが私には全然聴き苦しいところなどありませんでした。私の耳はSP盤もしくはLP盤の音を愛する耳になっているらしく、心はすっかりふるえてしまいました。カッチェン・トリオのCDの録音は1978年になっていますから、これも無論LP盤から音源を取ったものですが、ま〜るで空気が違って感じられました。 そしてこの際にと、ブラームスの他の曲、例えば「ドイツ・レクイエム」やピアノ曲、また様々な演奏家が演奏している、他の作曲家の三重奏や四重奏などのCDを買い求めました。が、その中でも、やはりカザルス、アルフレッド・コルトー(p)、ジャック・ティボー(vl)の3人による演奏は、ダントツに揺れまくっていて、「すご〜い」と言ったまま、口が開いている状態になってしまいました。 しかし、これを自分がやるのかと思うと、心の中には薄暗く重たい雲がもくもくと湧いてくるのでした。
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(2004年7月31日 記)) |
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私のクラシック音楽上のピアノ歴は幼稚園の時のオルガン教室に始まってはいますが、先生に就いて習ったのは小学校一年生の時から高校二年生の時まで。いわゆるピアノのお稽古を普通にやっていただけです。それもけっこうさぼりながら。というより、クラブ活動(ハンドボール部)と生徒会活動にいそしんでいて、ピアノの練習はそんなに熱心にやっていなかったように記憶しています。 その技術の程度と言えば、赤と黄のバイエルに始まって、ツェルニーの40番を終えた程度。ソナチネを卒業してベートーベンあるいはモーツアルトのソナタ、せいぜいショパンのほんの初めくらいのまでのものでしかありません。バッハのインベンションは小学校六年生の時に途中までやって、中学生になって先生が変わって以来やっていません。 小学校まで習っていた先生はそのまま音高、音大へ、と考えていたことを4〜5年前に知りましたが、中学生になってから就いた先生はそれまでの先生と音楽性が180度異なっていました。振り返れば、技術的な部分は小学校の時の先生に、メロディーを歌うことについては中学校以来の先生に学んだと言えるかもしれません。もし先生が変わっていなければ、私は単純にもっと技術を身に付けていただろうと思います。そして、私の道は大きく変わっていたかもしれません。 でも音高、音大へ進学することは、おそらく自分で選ばなかったように思います。私が学んでいた女子校は同じキャンパスに有名な音大がある学校で、理科の実験をしている時に、パッパラパッパッパー、ブヲーッブヲーッ、とトランペットやチューバの音が聞こえてきたりする環境にありました。 小学校の時には「子供のための音楽教室」に通っている友人がいたり、中学校の時には私たちといっしょに授業を受けずに、当時としても目玉が飛び出しそうなレッスン料を払って、有名な先生に就いている友人が何人もいました。また、珍しい男子生徒が青白い顔をして、決して痛めてはならないであろう指をかばいながら、バレーボールのような体育の授業をしている光景を見ていました。 そうした彼らの姿は、私にはなんだかちっとも楽しそうには見えませんでした。そして子供心に、音楽のことだけ一所懸命勉強していて、ほんとうに音楽のことがわかるのだろうか?と強く思ったことを、今でもはっきり憶えています。良くも悪くも、こうした青春期・反抗期に感じたことは、現在もなお私の中に生きているように思います。 ちなみに、私は大学は文学部に籍を置き、国文学を専攻しました。翠川さんは経済学部、太田さんは医学部出身です。うーん、こう書いただけでも、なんだかどこかあやしげな雰囲気が漂ってきます。 どうも世間の一部の方たちの中には、私にはクラシック音楽の素養があり、バリバリにピアノを弾ける人だと思われている方もいるようなのですが、全然そんなことはないのです。これは別に言い訳をしているわけではなく、事実を言っているまでのことです。ともあれ、そんな私ですので、具体的な作業として「譜面を読む」ということが、まずやらなければならない大きな課題になりました。 にもかかわらず、昨年の晩秋から冬にかけては長いツアーの仕事などもあり、譜面を紐解く時間をほとんど持つことができませんでした。こういう時、ピアニストは実に不利で悲しい状況に陥ります。そりゃ、ホロビッツなどのように飛行機に自分のピアノを2台積んで来れるとか、セシル・テイラーのように有名なピアノ楽器メーカーがスポンサーで付いてくれるとか、世界のトップに立っているような人たちは別ですが。 とにかく、持って歩ける楽器を演奏する人たちは、オフの日でもあれば、ホテルの一室でも川っぺりでも練習することができますが、ピアニストはそうはいきません。譜面を眺めたりCDを聞くことくらいはできますが、まずほとんど実際に練習できる場所に恵まれることはありません。練習するという行為はスポーツ選手のそれと同じで、非常にフィジカルなものですから、実際に指を動かし、繰り返し繰り返し練習すること以外に習得する道はないのです。 ‘97年秋、斎藤徹(b)さんの小松亮太(バンドネオン)さんを加えたピアソラ・ユニットで演奏していた時、1曲だけ作曲家が編曲した譜面の作品がありました。その時は私は非常に忙しく、その曲をまったく満足に練習できずにいて、他のメンバーみんなに迷惑をかけていました。ヨーロッパでの演奏を終えて帰国した翌日からこのユニットのツアーがあり、私は疲れきった身体を横たえながら、ほんとにホテルの部屋で涙をこぼしたことを憶えています。 そんなこんなで、物理的な時間もなく、譜面を積極的にめくる気もあまり湧かず、総譜(ヴァオリン、チェロ、ピアノの音符が全部書かれている譜面)をコピーしたいと言った太田さんに譜面を預けてツアーに出て、年末に譜面は手元に戻ってきました。そうして譜面は机の上に置かれたまま、新しい年を迎えたのでした。 でも、1月のリハーサルまで約3週間。ぼけっとしているわけにはいきません。正月明けから譜面を読み始めたのはいいのですが、これが遅々として全然進みません。この譜読みの作業のあまりの遅さには、翠川さんなどはきっと飽きれ果てていたことだろうと思っています。この場を借りて、あらためて、すべてにおいて忍耐強く支えてくださった翠川さんには心から感謝申し上げます。 こうして、佐藤さんにはめげそうだ、弾けそうにない、などといった泣きのe-mailを入れながら、最初のリハーサル、ライヴに臨んだのでした。その時かろうじて読めていたのは第一楽章のせいぜい3ページ程度だったと思います。やれやれ〜。
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なぜ が (2004年8月2日 記) |
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1月23日、最初のリハーサルとライヴがある日。幼少の頃より父から約束の時間の5分前にはその場所に行っていなければいけないと刷り込まれている、ただでさえ律儀過ぎるかもしれない私は、とにかく家を出て大泉学園に向かいました。譜読みができておらず、この曲を演奏できる自信など皆目持てず、重い気分で店の扉を開き、「全然弾けていませ〜ん」と机にうっぷしてしまいます。我ながらいい度胸をしているものだと思いますが。 それでもやれるところまでやってみようということで、第一楽章の最初の方だけ何回か繰り返して練習しました。ちょっと練習させてくださいと一人で弾いている間に、翠川さんは度数付きの水を身体に注入されています。過去にもこの曲を演奏されたことがあるという翠川さんは、私たちの中でももっとも余裕を持って臨んでいます。その様子を横目で見ながら、わ、わ、悪いなあと、気持ちは焦ります。 でも、私にはこれから毎月続いた2人だけの1〜2時間、このチェロとピアノが響いている時間はとても貴重なものになりました。自宅で一人で練習していては決して見えない、聞こえない、感じられないことがたくさんありました。 そしてこの日、何回も弾いたピアノの独奏4小節から始まり、5小節目からチェロが入ってくる、あの美しい冒頭の部分で、たった1回だけ、「ああ、この感じなんだろうなあ」という感触を、このリハーサルで得ることができました。同じ音符を繰り返し弾いているのに、その1回だけでしたが。それは初めて味わう、とてもおいしい果物のような、なんとも言えない香りのような感じがしました。 リハーサルを終えると、なんだかもうすっかりぐったりしています。頭の中が飽和状態になっているのがわかったので、一人で外へ出て食事にでかけました。夜はブラームスとは関係ない、3人での演奏があります。きちんと切り替えなければなりません。 「待てど暮らせど来ぬ人を〜」は、竹久夢二作詞の「宵待草」。宵待草は待宵草というのが本当で、一般的には黄色い花を咲かせる大宵待草(オオマツヨイグサ)が知られています。この大宵待草の花は宵闇迫る頃から咲き始め、翌朝、太陽が完全に昇る頃には萎んでしまい、しかもその色が赤っぽく変色するという特徴があるのだそうです。 ということで、「1セット目はデュオでやって、2セット目は太田のソロにしようか」と言ったのは翠川さん。「それじゃ、あと3分だけ待って」と店主。かくて、ライヴの開演予定時間の夜8時もすっかりまわった頃に登場したのがヴァイオリニスト。なんでも太田さんは某店で朝の7時まで語らっていたそうです。某店とはこのブラームス・プロジェクトのプロデューサーの店ですが。「んなら、幽閉しておけばよかったのに」という大方の意見の一致を見たところで、今晩はすべて即興演奏でライヴをやりました。 案の定、私のライヴでの演奏は最後までいつものような感覚を取り戻すことができませんでした。頭の中が違和感に満たされていて、神経細胞がスムーズに動いていないという感覚でしょうか。
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(2004年8月4日 記) |
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自分の中に相変わらず?を貯金しながらも、とにかくみんなに迷惑をかけてはいけない、やれば必ず何かを学べるはずだ、などと思い込みながら、譜面を読む作業が続きます。ここから譜面へのおびただしい書き込みが始まりました。実際にどんどん黒くなって行ったのは4月を過ぎてからになりますが。もし普段クラシック音楽をやっている人がこの譜面を見たら、嘲笑するか、わからない、と言われそうな状態になっています。 五線をはみ出した棒線の下には堂々とドとかレといったカタカナが書かれています。2とか3といった数字もあります。これは指使い。ほとんど幼稚園生のようです。 問題があると思うのは、例えば、嬰ハ長調(C♯メジャー)と変ニ長調(D♭メジャー)は同じことではあるのですが、全然違う、という禅問答のような状況のことを指しています。シャープかフラットか、これは演奏する者にとっては感覚的にまったく異なることで、その意味まで、つまり譜面が伝えようとしている中味や、何よりもなんというか肌触りが違う、ということに関わる重大なことだと思っています。私にはC♯だったら少し尖がった感じ、D♭だったらとても柔らかい感じという風に、どうしても感じられてしまうのです。 余談になりますが、小学校の音楽の時間で、ト長調とヘ長調の曲の感想を書かされた時、私はト長調の曲は光がいっぱい射し込んでいる明るい緑の野原にいるようだ、ヘ長調の曲はとてものどかで穏やかな風が吹く田園にいるようだ、といったようなことを書いたことがあります。無論何の曲かにもよりますが、こう書いたところに、赤いボールペンで先生が?を書いて返してきた時、何故“?”と赤く書かれなくてはならないのだろうと思ったことを、今でもはっきり憶えています。こんな風に感じたりするのは間違っているのだろうか、と。 とにかく、私はあらためて自分が如何にジャズに犯されているかを思い知りました。コード・ネームを付ける、フラットの調に書き換えるなどという暴挙はもとより、少々愕然としたのは、譜面表記上ではG♯mになるものがA♭mに、D♯7がE♭7に、どうしても聞こえてきてしまっている自分を見た時でした。この部分については、練習を積んでいくうちにだいぶ薄まりましたが、それでも自分の中で咄嗟に読み替えたりといったことは残っています。 ジャズという音楽は20世紀にトランペットやサックスといった楽器と共に発展してきたという経緯が強く、そのためジャズを学ぶ過程では、そのほとんどがフラットの調で占められているといっても過言ではありません。デューク・エリントン楽団の演奏などを聞けば感じることができますが、管楽器がもっとも美しく響き合うのは、やはりフラットの調ゆえというところがあります。ですから、エリントンの曲にはフラットが4つ、5つ付く曲がたくさんあります。結局、私もいつのまにかそれに毒されていたことに気づいたわけです。 それに比べて、弦楽器、例えばギターなどをかき鳴らすロックなどの音楽は圧倒的にシャープの調が多いです。そしてヴァイオリンやチェロといった楽器も、開放弦が使えるかどうかでその響きや指の運動が変わってくるようです。ただし、今回のブラームスの作品のようにシャープが5つもあると、その開放弦はほとんど使えなくて、演奏するのがとてもたいへんらしいのですが。 ああ、♭♭♭たちよ・・・ ことのついでに言えば、例えば有名な「枯葉」という曲がありますが、ジャズを知っている人間同士で楽器だけで演奏する場合は、普通は何も言わなくても暗黙のうちにGm、と相場は決まっています。フラットが2つ付くト短調です。でも仮にヴォーカリストの伴奏をやることになって、その人がAmで歌うとします。シャープもフラットも何も付いていないイ短調です。たった一音しか違わないのですが、私にはもうまるで世界が違うように感じられます。 また、例えばピアノの調律の際に「ピッチは442でいいですか?」と聞かれたりする“ピッチ”というものがあります。442というのは、ピアノで言えば真ん中のドの音(一点ハ)からドレミファソラと上がっていったところにある、ラの音の高さを指します。NHKの時報などで聞く音です。 (今回はちょっと専門的な話になってしまいました。よくわからない方はどうぞご質問ください。)
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第五章 「自立せよ」とブラームスは言った |
(2004年8月6日 記) |
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2月、家のことでがたがたしていて、家族会議はしなくてはならないし、なんだかんだとあまりに私事がいろいろあって、私はなかなかまとまった練習をする時間が持てないでいました。それは普段の練習や、作曲や編曲のために集中的な時間を作ったりすることとは、少し質が異なっているように感じられました。 実際、こうした練習というものは、生活によっぽどの余裕がなければ、あるいは環境に恵まれないと、とてもできないことを悟りました。お母さんが病気になった、子供の成績が悪い、洗濯だ、掃除だ、夕飯の支度をしなければならない、ローンのお金の工面はどうする、天井から雨漏りがする等々といった、いわゆる普通の日常生活に起こることから完全に切り離された時間を持たないと、とても集中して練習などできないという感じでしょうか。 そんな身体をひきずって2月20日の2回目のリハーサルに向かいました。「とてもこの曲をできそうにないので、降りたい」と言ったのはこの時だったと思います。 そしてさらに課題は増えたのでした。翠川さんから渡された新たな譜面は、ヘンデルの「チェロ・ソナタ」でした。さっと手渡されて、ブラームスの作品よりは初見である程度は弾けたものの、書かれている音符を弾く作業には変わりはありません。 これは、ブラームスの「ピアノ三重奏曲 第一番」を演奏する当日のプログラムは、前半・後半ともクラシック音楽だけを演奏する日にすることが決まったためです。考え方として、半分はブラームス、半分はいつものライヴのように即興演奏、あるいは何らかの曲があっても自分たちで自由に演奏できるものを、といった話もないわけではなかったのですが、いわゆるフリーで演奏すると、もう指が譜面通り弾くクラシック音楽には決して戻らないということから、すべて譜面のある音楽をやる、ということになったものです。 こうして、私も太田さんも、それぞれ他に1曲何かを持ってくる、ということになりました。あ、あ、あと3曲も譜面を弾かなければならないのかと思うと、私の憂鬱の霧はますます濃くなっていくのでした。 ところが、リハーサルをしている途中で、何故だか今でもまったくわかりませんが、一瞬、私の周辺が真っ白になりました。そして声が聞こえたのでした。 「自立しなさい」 瞬間、あっ、譜面の向こうからブラームスが言っている、と感じてしまったのです。それはこの曲を弾くには私の演奏技術が追いついていないというという現実に対する叱責というのではなく、何かもっと別の私に対する呼びかけのように思えました。この話、決して作っていません。ほんとうのことなのです。そしてこれ以降、これはいったい何なのだろう?ということが、私を突き動かしていきます。 この不思議な感覚は、私に「挑戦する」という気持ちを少し起こさせるものになりました。 この日の夜のライヴは完全な即興演奏だけではなく、少し曲もやろうということでその練習をしたりしたので、結局ライヴが始まる20分くらい前までリハーサルをしていたのではなかったかと記憶しています。当然疲れていましたが、前回感じたような違和感が多少あったものの、なんだかだいぶ違った感覚で演奏することができたように思います。 さらに、人にはわからなかったとは思いますが、この頃、ブラームスの曲を練習することで、どうも自分の演奏が少し変わってきているような感触を受けていたのも事実です。特に誰かとデュオで演奏する機会を得て即興演奏をしている時に、その影響が出始めていることを、演奏しながら自分で気づくことがしばしばありました。かつて自分はこのような左手の使い方をしていなかったのではないか、こんな音の立ち方をしていただろうか、それに構成力の変化、すなわち場面を展開する際の持って行き方などにおいてです。 |
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(つづき) 帰宅して、買っておいたブラームスの伝記(『大作曲家 ブラームス』/ハンス・A・ノインツィヒ 著、山地良造 訳 音楽之友社)を読み始めました。少々読みづらいなあと感じながらもページをめくると、最初の“ブラームスの世紀”というところには以下のようなことが書かれていました。 「1833年に生まれ、1897年に世を去ったヨハネス・ブラームスは、あらゆる面から見て19世紀という時代の子であった。彼の生涯における最も重要な成長期と創作期は、19世紀の後半に相当しているが、それは市民的個人主義の時代であり、その頂点は<会社設立ブーム時代(Gruender Zeit)>にあった。」 (中略) 「ブラームスが絶えず直面しなくてはならなかったのは、<業績>に対する自分自身の要求から生じてくる、何とも鎮め難い不安であった。彼はその意味でまさしく彼の世紀−個人主義の世紀−の生き写しであり、この時代に特徴的だった、市民としての安穏な生活を送りたいという気持ちと、一つの地に定住しない自由な生活への彼の逃避本能との矛盾を内面に抱えていた。彼の友人でヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムが作った<F・A・E>(自由に、しかし孤独に)というモットーや、ブラームスがその順序を入れ替えて作った<E・A・F>(Einsam aber frei/孤独に、しかし自由に)は、個人主義に基づく葛藤を表現したものである。」 とりあえずこれらの文章を鵜呑みにして読んだ私は、そっかあ、ブラームスは個人として自立しろと、ピアニストとして自立しろ、と私に言っているのだと、まったく勝手に納得したのでした。 (話は少し横にずれますが、上記の文章を読んで思い浮かんだのが、二葉亭四迷の未刊の作品「浮雲」の文三、あるいは夏目漱石の作品「それから」の代助、のことでした。それまでの日本にはなかった、いわゆる近代的自我あるいは個人主義といった概念に向き合って闘った、明治時代(1868年〜1912年)の作家たちのことでした。ちなみに、私の卒業論文は夏目漱石の作品を扱ったものです。) かつて私は小室等さんから「君は出自がわからない」と言われたことがあります。たいていの人は、例えばハンコック風とか、ドビュッシー弾きとか、なんらかの影響なり、誰それ風というのを感じるものだけれど、私にはそれがないと言うのです。 私が問題にしてきたのは、常に他ならぬやっかいな「自分」というものでした。平たく言えば、自分らしく在るにはどうしたらいいのだろう?では、自分らしくと言った時の、自分とはいったい何なのだろう?といったようなことです。言い換えれば、自己実現への希求、自分が存在することの意味を探る、といったことになるかもしれません。ちなみに、私はまず自分を問題にしていない人、自分にきちんと向き合っていない人は、音楽家としてはだめだと思っています。 とはいえ、優れた芸能論である「花伝書」の中に書かれているように、畢竟「花とて別になきものなり」という考えがあるのも事実です。若い時は、自己表現とか自己実現といったことに非常にこだわっていましたが、ある時から音楽は自己表現の道具ではない、と強く思うようになり、私にとって音楽はもっともっと大きいものになりました。 そんな風に考えるからでしょうか、その考え方、感じ方の出発に、エリック・ドルフィーの音の在り様、その音楽との出会いが、私には決定的な意味を持っていたと思っています。私にとってジャズという音楽はジャンルやスタイル、フレーズといったものでは決してなく、どうしようもない人間の存在や、まったくの個人が発するぎりぎりの声のようなものが聞こえてくる音楽としてあります。別にジャズに限ったことではないのですが。 そして、譜面に書かれていない音楽をやること、何も約束事がなくて自分が真っ裸になるような状況に立たされて音楽をやること、すなわち、即興演奏は「自立(あるいは自律)」していることが前提として出発すると思っていますが、ブラームスはこの根本的な「自立」の部分に問いかけてきたのだと思います。 ここに書いていることは相当な理屈です。きわめて一人合点、甚だ自分勝手だと思います。でも、私にとってはこれは大きな収穫でした。 順序が逆じゃないの?と思われる方もいると思いますが、仕方ありません。これが事実で、私がたどったプロセスでした。うーっし。
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第六章 とのまくんになりたい |
(2004年8月7日 記) |
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3月になっても、私の譜読み作業は遅々として進んでいませんでした。リハーサル&ライヴがある前の週は比較的時間が取れて、ほぼ毎日5〜6時間は譜面に向かいました。が、それでも第四楽章にはまったく手が届かず、それまでの楽章さえも虫食いだらけながら、なんとかさらっているのが実情でした。 練習しているうちに、ほんとに自分は下手くそだと嘆き、そのうち自分の調性感が狂ってくるわ(♭への読み替えのためです)、椅子から立ち上がってわめくわ、家の中を歩き回るわ。左手の指は動かず、昔から不得意なアルペジオは弾けず、跳躍する音に頭と手が追いつかず。ダブルシャープを読解し、ちょっとトリッキーなリズムの部分で興奮し、十度の音程をどう弾くか考え。挙句の果てに、“とのまくん”(漫画「ドカベン」)のように指と指の間を切ることを想像したり。細かい譜面を読んで頭痛に悩まされ、いやあああ、ほんとにどうにかなりそうな様子でした。 そしてこの段階で、これ以上二人に迷惑をかけるようだったら、ほんとに降りたほうがいいのではないかと再び思い悩みました。 では、それでは自分はどうなのだ?と我が身を振り返りました。他人のことをとやかく言っている場合ではない、最後まで努力をするべきだ、いや、今あきらめればみんなに迷惑をかけなくても済むかもしれない、という両方の気持ちが葛藤していました。どちらかというと、ここで降りてしまうのは悔しいという思いと、一度引き受けたものを撤回するような無責任なことをしてはいけないという意識が非常に強かったのは確かですが。でも、それくらい私は情けない自分と、その技術の限界をひしひしと感じていました。 相変わらずそんな自分をうだうだとひきずりながらも、ともあれもう1曲ということで、私はシューベルトの「ピアノ三重奏曲 第一番」の第二楽章だけを抜き出して演奏してみたいのだけれど、と提案しました。当初、こういう曲は全楽章やって成り立つものだから却下、という意見があったのですが、結局翠川さんが折れてくださり、本番で演奏することになりました。
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第七章 関係は進化する |
(2004年8月8日 記) |
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3月23日、リハーサルの後に行われたライヴは、私にはたいへん印象深いものになりました。 この日は何も決め事がない即興演奏の他に、曲を4曲程取り上げて演奏しましたが、例えば太田さんが提示した、3人で初めて演奏した、チャーリー・ヘイデン作曲の「ラ・パッショナリア」という曲。譜面はといえば、一応二段譜になっていてコード進行も書かれているのですが、それは演奏してもいいし、しなくてもいい、というスタンスです。で、通常ジャズをやっている人たちとだと、アドリブはどういうコード進行にしようかとか、リズムはこうしようとか、事前に話したりすることがほとんどです。 正直に言えば、すべて即興演奏で行った1月のライヴを終えた後、このまま毎月“即興”を続けていたら、早晩息詰まるのではないだろうかと、私は思っていました。クリシェやパターンに陥るのではないかと。 一人の人間ができることは、また音楽的に一人の人間が持っているもの、箪笥の引出しのようなものは、そうそう多くはなく、何も決め事のない即興演奏は、すぐに実は何もない自分に直面することになると私は考えています。別の言い方をすれば、即興演奏はすべてが許され、すべてを選択できる自由があるわけですが、すぐに不自由の壁につきあたると思っています。そういう意味では、翠川さんもよく言っておられるということでしたが、即興演奏に幻想は抱いていません。 そしてとどのつまり、その人の“人間”の大きさや深さ、考えていることといったものに、その音楽の内容は比例するように感じています。あるいは、どれくらい自分の耳を、自分自身を鍛えているか、ということに。 そういう意味では、こうした文脈で考えられる即興演奏というものは、出会いの新鮮さや面白さと同時に、その関係性という問題も含めて、常に馴れ合いや息詰まる道への危険も孕んでいるのだろうと思います。なにせナマモノですから、その日の天気、体調、気分、お客様の様子、またお客様自身(聞き手)の状態など、前回とは違う様々な因子が変化をもたらすことも多々ありますが。 そして2月のライヴでは確か即興演奏の他に、曲を2曲くらいやったのではなかったかと思います。あるテーマなりメロディーのある曲をやることが、即興演奏のための素材あるいは道具になることが良いことか悪いことかは別として、道標のような役割を果たすことにはなっていると思います。演奏の動機付け、きっかけのようなものでしょうか。 とにかく、もともと太田さんも翠川さんもたいへん力のある演奏家ですが、3月のライヴでこの3人が創り出した音楽の世界は、今、この日本にはないのではないだろうか、と本気で思ってしまうほどでした。決して狭隘な自己表現などに陥っていない、そこにはただ豊穣な音楽があった、という感じでしょうか。出会いから、こうしたプロセスを経てやってきているトリオで、ちょうど“旬”だったのかもしれませんが。いえ、まだまだ慢心してはいけませんね。 ということを確実に感じられるものがあって、この日、依頼が入っていた8月の四国・愛媛県城辺町で毎年行われているジャズ・フェスティバルに、このトリオで参加することを決めたのでした。いえ〜い!
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第八章 ためされる指 |
(2004年8月9日 記) |
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3月のライヴを終えた頃、私はブラームスの譜面をコピーして、どこに行くにも肌身離さず持ち歩くようになりました。これは覚えなくては弾けない、と判断したためです。電車に乗って窓越しに外を眺めながら、頭の中で音符と架空の指の動きを描き、それが途中で止まるたびに、実際の譜面を見て確認する、といったことが始まります。こういうことをしていると、すぐに降りる駅を逃してしまいます。 譜読みは第四楽章に突入していましたが、これがまた弾けません。たった4小節を弾くのに2時間もかかったりしています。もう自分でバカヤローなどと叫びながらの作業です。一度ピアノの前に座って、5分くらいの休憩を少しずつ入れながら集中力を保てるのは4時間がぎりぎりという感じでした。その後はしばらく放心状態になります。 4月上旬、イラクで邦人が拉致される事件が発生しました。テレビを見ていて、なんだか遠い世界のことのように感じている自分がいました。普段は決してこんなことはないのですが。普通の練習や作曲・編曲作業をやっている時は、いわゆる社会や世界で起こったできごとは、自分の音や考えになんらかの影響を与えたり、それが反映されたりすることもあります。が、この既に他人の手によって書かれている譜面を弾くという作業は、なんだかおそろしく社会から隔離されている時間を持つことのように感じられました。無論私がこういう作業に慣れていないということもあると思いますが。 そして4月半ば頃、私はたまたま約100年前(1989年製)のスタインウェイを初めて弾く機会に恵まれました。スタインウェイは現在世界一と言われているピアノ・メーカーで、このピアノの型はもっとも小さいものですが、その姿はこのうえなく美しいものでした。ピアノの譜面台、脚、金属フレームの部分などには装飾が施されています。 ついでに言えば、’90年代初め、初めてドイツのフェスティバルで演奏した時、私はベーゼンドルファーのインペリアル・コンサートグランドピアノを初めて弾きました。ベーゼンドルファーはスタインウェイと並ぶ世界のブランドです。インペリアルというのは通常のピアノは88鍵ですが、さらに低音に黒い鍵盤が付いている、ばかでかいピアノです。この時は確か92鍵だったと思います。 私はその約100年前のピアノの前に座ります。小1時間くらい弾いてみたでしょうか。前もって聞いていたように、鍵盤の深さは少し浅く感じられます。もともとスタインウェイはヤマハなどのピアノに比べると浅いのですが、かなり浅く感じられました。 結果を先に言ってしまうと、この時、私は調律師の方にためされました。これはあとの打ち上げの際にご本人から知らされました。びっくりすると共に、一瞬呆然としました。幸いその日の演奏は多くの方から喜ばれたものになりましたが、もし自分の指と耳が調律師の方がわざとそうしていた部分を感じていなかったとしたら、そう思うと、ぞっとしました。もし私が感じたことを告げていなかったら、おそらく演奏をする前に私はダメなピアニストとしての烙印を押され、仮にそのことを知った人たちは、そんな私が奏でる音楽を聞く気にもならなかっただろうと思います。 このできごとはそれから約一週間、私の頭から離れませんでした。愉快なのか不愉快なのか判然とせず、どうももやもやとしています。自分が調律師の方に故意にされた行為はいったい何だったのだろう? その調律師の方は調律する前に、これから演奏するグループがどんな音楽をやり、ピアニストがどんな演奏をするのかを知りたいとおっしゃったと聞いています。それでCDを聞いたりされたそうなのですが、あいにく私が参加しているものではありませんでした。 もし私が普段から非常に粗野な演奏をしている者だったら、あるいは通常あまりピアニッシモなどに気を遣うことがないジャズだけをやっていたら、さらに後日別の章で書くことになると思いますが、某調律師の方に出会っていなければ、私の指は何も感じなかっただろうと思います。そしてブラームスの練習をしていなければ。しっかし、人生、実にいろんなことがあるもんじゃ〜。
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ぼくはほとんど天然素材でできている |