自在


哀悼 金大煥




  怪人。
  
と、呼ぶにふさわしいような人だった。
  
3本のマレットを持つゴツゴツした指には、
  少し赤くなったタコができていた。
  
なんとなく特有な匂いを持っている人だった。



1985年、とても暑い夏の日。私は初めて金さんを見た。東京・立川にある国営昭和記念公園の特設ステージで行われた、近藤等則さんが企画した『東京ミーティング』のコンサートで、姜泰煥トリオのメンバーとして来日した時のことだ。聴衆の中には、故中上健次さん(作家)や故小野好恵さん(元ユリイカ編集長)の姿もあったから、なんとなく、どうもこれはなかなかたいへんな事態が起きているらしい、という気配を感じたことを憶えている。サムルノリの来日公演などを聞いたのも、これからほどなくしてからだったと思う。


韓国のフリージャズ?韓国の音楽?ジャズという音楽を学んだばかりの、さらに韓国と日本の関係をめぐる歴史にそれほど詳しくはなかった私にとって、このことがどういう意味を持っているのか、当時はほとんどわからなかった。そして、のちに、この姜泰煥トリオの人たちと個別に演奏する機会が自分にめぐってくるとは、その時は想像だにしていなかった。


ぬっと現れて、僕もいっしょに演奏したいと言う。19898月、新宿・ピットインの朝の部で演奏していた時のことだ。共演者は島田康男さん、澄淳子さんの二人で、金さんには後半のステージに加わってもらった。確か「イヨマンテの夜」などの曲をやったように思う。金さんはシンプルなセットで演奏したと思うが、多分聞いたこともない曲なのに、何故か雰囲気は合っていたような印象が残っている。これが金さんとの初めての出会いだった。


その後、新宿・ピットインや関内・エアジンでのセッション、下北沢・レディージェーンの大木さんの企画によるライヴやコンサートで、金さんとは何度も演奏する機会に恵まれた。ある晩のピットインでの終演後、当時のマネージャーだった龍野さんたちと共に、新宿のどこかの居酒屋で、金さんの還暦の祝杯をあげたことははっきり憶えている。とても60歳を迎えたとは思えない元気さで、自分にはまだまだやりたいことがあると、溌剌とした調子で言っていた。なんだかわからないが、すごいなあ、と感じたのだった。


しかしながら、正直に言えば、その頃の私には金さんの音楽がよくわからないでいたのだった。金さんとの演奏は、その時の共演者にもよるが、たまに楽曲をやることはあったものの、そのほとんどは即興演奏だった。私にとって、金さんの演奏はそれまでに出会ったことがない類の音楽で、なんとなく適当に合わせているといった感じをぬぐえず、いつも心の底にはもやもやとした疑問符が残っていた。


いったい、どう、何を、金さんと話せばいいのだろう?金さんの演奏のどこを、どう聞けばいいのだろう?何を見ればいいのだろう?どう対応したらいいのだろう?どうすれば金さんの音楽に自分が対峙でき、理解し合うことができるのだろうか?そんな風にずっと感じてきていたのだった。


1990年代に入ってから、私は幸運にも外国で暮らすミュージシャンと演奏する機会を多く持つようになった。そこで私がもっとも感じたことは、音楽に国境は「ある」という事実だった。多くの人が口にする、音楽に国境はないという言葉を用いることには非常に抵抗があり、たいへん安直なものに思えた。その言語の違いも含めて、まったく異なる風土や習慣、環境、文化に生まれ育った人と、そう簡単に理解し合えるものではないだろう。違う、ことが問題なのであり、だからこそ、その人との関係をどう結べるか、が大事なことではないかと考えるからだ。


特に即興演奏において、予定された曲や歌や方法(調性、リズムなど)をあらかじめ持ち込むことは、その時点で既に即興演奏の意味を失っている。さらに、自律しているというのは前提であり、自分の歌やスタイルや技術といったことで状況を押し切ったり、それらを含めた自己主張あるいは自己表現をすることが、即興演奏の場に求められていることではない。平たく言えば、真に相手を理解する努力を怠り、その上で相手に歩み寄ることが必要であってもそうはせず、自分の技量で言いたいことだけを主張したり、自分のスタイルやパターンを相手に押し付けるところには、ただそれだけの関係と音楽しか生まれない。その演奏の流れや磁場のようなものをしっかり判断しながら、まずやらなければならないことは、なによりも相手の出す音をよく聴く、ということだけだろうと思う。


そして、20003月、新宿・ピットインでセッションをする機会を得た。既に前半のステージを終え、後半のステージに入り、その時の共演者だったおおたか静流さんと早坂紗知さんと3人での演奏、さらに金さんのソロがあって、金さんと私のデュオになった。


その時、ちょうどその翌週に本番を控えていた芝居『梟の声』の役者である雛涼子さんがたまたま聞きに来ていて、私は彼女をステージに引っ張り出すことにした。この約20分の、彼女と私の二人だけの短い芝居は、故岸田理生(りお)さんの作・演出による作品で、その晩年韓国に深く傾倒していた理生さんが韓国語と日本語で書いたものだ。当時、太田省吾さんが主催する演劇のシンポジウムや、その芝居のプレ・トークなどでも、理生さんは「私たちは朝鮮の人たちの言葉を奪ったのよ」ということを、声を大にしてしきりに話していた。その語気はそういうことをした日本人の一人であり、かつ言葉を扱う仕事をしている者の苦渋と、朝鮮の人たちに思いを馳せる想像力による力強いものだった。


雛さんはかなり緊張している様子だったが、私は彼女にその芝居の中に出てくる韓国語の歌とその少し前のセリフをやって欲しいと提案した。従ってこの部分についての雛さんは即興ではない。「おんまあ」で始まるセリフに金さんの太鼓と私のピアノが絡む。そしてルバートで始まった歌は、次第にゆっくりとしたテンポ(8ビートのスロー・バラード調)になって歌われる。この時、無論金さんはその拍子で演奏して合わせたりはしない。歌の向こうをはるかに見ながら、それを突き抜けた演奏をしている。一度も聞いたことがないはずの歌なのに、歌が大きくなっている。


その後、雛さんはステージから降り、金さんと私の演奏になっていく。この時、私は金さんが叩き出す音が、その音楽が、やっとわかった、という瞬間に立ち会って鳥肌が立った。この感覚は今でも決して忘れていない。音楽の表れはある一定のリズムや拍子があるわけではなく、互いにそうしたものに合わせているわけではない。それでも私の身体は金さんの音の波にゆられながらも、私は私で自由にピアノを弾いているという感じだった。リズム、パルス、というよりも、呼吸から紡ぎ出される二人の音が、熱さを持ちながら、大地を疾走しているような感じだろうか。


今、その時の録音テープを聞いてみても、その感覚は鮮やかに蘇って来る。聞き返してみると、最後の方の金さんの演奏に対して、私が演奏で応えていないところ(多分私はピアノの前で身体をゆらゆらしていたと思う)には悔いが残るが。ともあれなにせ約25分に渡る、共演者たちからは長いという理由で猛烈な非難まで受けてしまったこの演奏で、私は途中で何回かやめようとしている。それでも金さんは決してやめなかった。叩き続けていたのだった。


金さんはよく「一拍子の自由」ということを言っていた。これは胎児が聞く母親の心臓の鼓動、あるいは一は、二にも三にもなる。一は始まりと終り。一拍子で音楽をすれば、いっしょにやる人が三にするか四にするか選ぶことができる。といったようなことだったと思う。言ってみれば、私が震えるような体験をしたのは、まさにこの一拍子だったのかもしれない。


こうした金さんの演奏に比して、姜さんの演奏はその座布団に胡座をかいてアルト・サックスを吹くという姿からして、静的な印象を受ける。が、延々と続くノイズを多く含んだノン・ブレスの音群は、やがて広大なアジア大陸の風景をどんどん広げていく。そこには何か選ばれた構成や既存の音楽のスタイルが持ち込まれることはなく、どこに最終目的があるわけでもなく、ただひたすらに砂けむりをあげながらゆっくり前へ進んでいくような、不思議な空間が立ち上がっていた。


また、崔善培さんのトランペットの音は、宙空に舞い、踊っている。ある時は腰くらいの位置で息の音を多く含んだつぶれたような音が、ある時は頭上にしゃぼん玉のようにぽわっと生まれては消えていくような音が、ある時は天井を突き抜けるような鋭い音が。その音楽は虚空に自由に点在している感じだった。


かつての姜泰煥トリオの人たちはみんな温かく、友好的で、こうして振り返ってみると、一口にフリー・ジャズ、あるいは自由と言っても、まったく三者三様であったことに今更ながら気づく。


3人の中で、唯一かなり日本語を話すことができた金さんは、韓国と日本の関係を考慮すれば、ずいぶん早い時期から日本を頻繁に訪れていた一人ということができるだろう。これは1998年に、当時の金大中大統領が日本大衆文化の段階的開放措置により、韓国国内での日本文化の享受を条件付きで決めたことを思えば、また先に書いたようにおそらく日本語の使用を強要された世代に属するであろう金さんのことを思えば、いかに金さんがそうした事柄から自由であったかを想像させる。いや、自由というよりも、自在という言葉の方がぴったりくる。あるいは、こうしたやわらかい心をどうしたら持てるのだろうと、私に思わせる。


金さんは米粒に般若心経を書く能力を持っていて、その記録はギネスブックにも載っており、その書の力は大統領から依頼が来るほどのものであったことは広く知られている。金さんが叩き出すパーカッションの音は、こうした書に見られる精神性と深く関わっているように思う。プクやスネア、シンバルによって叩き出される拍子にとらわれない非常に細かいパッセージや、銅鑼が鳴り響く音のすべては、暗闇に一つずつ確実に刻み込まれながら、地中を縦横無尽に走っているような感じがする。その音は外へ開放するといった感じではなく、もっと内へのベクトルを持ったもので、何かとても根源的な地球や人の命を喚起させる。


私が金さんから学んだものは、おそらくこうした精神性だろうと思う。そしてその在り様、すなわち自在である、ということのように思う。そしてこの自在感は欧米諸国で言われるところの自由とは質が異なり、かなり私たち日本人に近い感覚を伴ったもののように思う。


こんなことを書いている私を、金さんは天から笑っているだろうなと思う。もう二度と会うことができない悲しみを抱きながら、ありったけの敬意をこめて、私は言わなければならない。ありがとう。そして、さようなら。


2004422日 記 黒田京子)


『音場舎通信 65号』
(金大煥追悼号/2004年7月18日発行)
より転載


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