4月
4月1日(金) 複雑な心持ち

フロイトの言葉
「仕事と愛する人がいれば、どんな困難でも生きていける」

すべてを失った人のことを想う。

今、福島原発の問題は、被害者であると同時に、加害者でもある、という意識を、私の中に生んでいる。

こう感じている自分を矛盾しているとは思わないが、この「矛盾」という概念は否定的に考えられるべきことではないと思う。おそらく、人はいつでもそのはざまを生きている。

NHKテレビで放映された、都知事選立候補者の演説を見る。なんだこりゃ、と思う人もいて、ますます複雑な心境になる。



4月2日(土) 義援金のゆくえ

いわゆる“チャリティー・ライヴ”というものについて考えてみる。義援金をどこに送るか、それはどのように使われるのか、ほんとうに届かなければいけない人たちに届くのか?

私のいとこは某劇団の制作総指揮をしているのだが、東京の劇場での公演中、2000人以上のキャンセルが出たらしい。そして、地震当日の中止した公演の振替を千秋楽の後、すなわち千秋楽はマチネで、そのソワレに行うという異例の措置を取ったとのこと。でも、その当日券が600枚くらい出たというから、この劇団、それなりの底力と人気があるということなのだろう。

といったことを、彼は詳細にブログに書いているけれど、公演期間中のグッズなどの売り上げのすべて(約450万円)を義援金として、岩手、宮城、福島、茨城、各県の受付窓口へ送ることにしたらしい。



4月3日(日) 光景に声

だめだ。津波に飲み込まれた沿岸地方の光景をテレビで観ていると、猛烈にたくさんの声が聞こえてくる。胸がざわつき、しめつけられ、涙ぐんでしまう。

なので、時々ラジオを聴くようになった。ところが、耳が疲れていけない。つい、この人の声はいいなあとか、このイントネーションや感情移入された口調はいかがなものかとか、余計なことを思ってしまう。ほとんど職業病か?

ともあれ、時折、自分をうまくやさしく逃がしながら、現実をきちんと認識する理性を働かせようと思う。


4月4日(月) 春

強い風が吹き、家がミシッと音をたてると、思わず天井からぶるさがっている照明器具を見てしまう。みんな、きっと、そんな感じの日常を生きている。

桜は七分咲きくらいになっただろうか。庭の沈丁花は満開。黄色い水仙、薄紫と薄ピンクのヒヤシンス、ピンク色の椿、白と紫のクリスマスローズなどが咲いている。甘いかおりに包まれる。

坂田明(as)さんに声をかけていただき、ここ数年、講演会&コンサートでごいっしょする機会に恵まれている、鎌田實先生(医師)のblogを読んでいる。さらに主宰しておられる日本チェルノブイリ連帯基金(JFC)のスタッフの方たちのblogも。

先生やスタッフの方たち、さらに松本・神宮寺の和尚さんたちは、既に被災地に入って活動されている。

もし私が今現地に入っても、おそらく何もできない。風景の中に茫然と立ちつくすか、体力がなくて地べたに座り込むか。なににせよ、迷惑になるだけだろう。ので、ほんの気持ちだけ、JFCの活動を応援することにする。現地に赴くガソリン代くらいにはなるだろう。

海が汚れた。空気が汚れた。大地が汚れた。

否、海を汚した。空気を汚した。大地を汚した。

夜、低い濃度の放射線が含まれた水が、海に放出された。メルトダウンは先月15日頃には既に始まっていたと言っている人もいる。事態はちっとも良い方向へ向かわない。



4月5日(火) ただそれだけの

夜、“太黒山”で演奏。音を出すよろこび。ただそれだけのことを、この8年も続いているらしい即興演奏ユニットは思い起こさせてくれるように思う。だから、誤解をおそれずに言えば、前にも後ろにも進まない。高くも深くもならない。このよろこびを伝えられなくなったら、活動をやめればいいと私は思う。



4月6日(水) 死

いつのまにか「死」を意識するようになっている自分に気づく。

人はなぜ死を怖れるのか?

それを見据えると、今、ここに生きていることが逆照射され、「生きよう」と思う。自分の頭上に、今日もまた陽が昇ったことを、なんて有難いことだろうと思うことができ、少し落ち着く。

自分が置かれている不安な、またきわめて不安定な状況を落ち着かせるために、「被災地の方たちはもっと過酷な状況にあるのだから、私なんて・・・」と思うことは、自分を納得させる一つの方法ではあると思う。

けれど、おそらく、それは根本的な解決にはならない。こういう精神状態は、つまりは、私が哲学を、あるいは宗教を求めているということだろうか?というようなことを考える余裕がある私は、ほんとにまだ幸せ者だ。

こういう時、知らない間に、否、知らされない間に、大きな権力が大事なことを隠したり、動いたりすることに、注意しなければならないだろう。あるいは、わけのわからない新興宗教にひっかからないようにしないといけない。



4月7日(木) へこたれない

午後、太極拳の教室。後半は昇降椿(しょうこうとう)を行う。股関節を柔らかくすることで、地震酔いに耐えられるようになるとのこと。汗をかく。

今、「不安」を抱えている人からは、あまりいい“気”が出ていないように感じる。なんとなく誰もが少しイライラしている。

夜遅く、11時半過ぎにかなり強く、しかも長い地震。思わず「神様、もうゆるしてください」と言っていた自分。

やっと少し平常心を保てるようになってきたかなあと思っていたのに、これだけ揺れるとすぐに萎えてしまう。この振幅がちょっとしんどい。

けれど、「へこたれません」と書かれたメールが届いた時は、そうだよね、と共感する。若い時は運動部に所属していたこともあり、「がんばる」という言葉を山のように使って生きてきた私だが、最近はこの言葉を好まなくなった。でも、この「へこたれない」は気に入った。




4月8日(金) ハヤシライスの日々

貧乏な状態が続いているので、ここのところ、最初の仕込みを丁寧にやった、ハヤシライス(ハッシュドビーフと言ったほうが格好良いだろうか)を毎晩食べている。牛肉はもちろん安いオーストラリア産のものだ。

風が強い。こういう日は耳鳴りが1オクターヴあがって、少しつらい。



4月9日(土) 給食カレー

夜、門仲天井ホールに行った後、両国bb(ベーベー)に寄る。昨日、上野でのお花見は自粛させられたものの、お店に桜を飾って、みんなでわいわい花見パーティーをしたとのこと。その時の名残りの“給食カレー”があり、それを食べて帰宅する。みんな無事に過ごしていることを、顔を見て話して、少し安堵する。



4月10日(日) ゆいっこ

都知事選。夜、8時、NHKテレビ。開票速報が始まったと同時に、東京都は石原慎太郎再選の報道。

少なくとも、私の周辺で石原に一票投じると言ったり書いたりしている人は、誰ひとりとしていなかったのに。母によれば、母の世代(70歳代半ば)にも評判は悪かったのだけれど。うんむう。

この時のNHKのアナウンサー、毎晩夜7時のニュースを担当している人だが、途中で何度も声がかすれていた。大地震以降、ほぼ毎日、長時間しゃべり続けているから、相当疲れているのだろうと思う。

実は、私は彼のファンなのだ。声の質感が温かく、言葉や文章を確実に伝える力があると感じるからだ。なので、ちょっと心配になる。(したらば、その後、やっぱり一週間お休みになってしまった。)

岩手県大槌町にあった、ジャズ喫茶クイーンの様子を知った。岩手県内陸部の花巻に住む人からの報告だ。
ルポ・大槌2(ジャズ喫茶「クイーン」)

ちなみに、震災後の映像に変わっているgoogleの航空地図には、このお店があった所に、その名前だけが書かれている。変わり果てた町の中に。

<参考>
web “ゆいっこ”

ゆいっこは民間有志による復興支援組織。被災住民を受け入れる内陸部の後方支援グル―プとして、救援物資やボランティアの受け入れ、身の回りのお世話、被災地との連絡調整、傾聴など精神面のケアなど、行政を補完する役割を担っている。

義援金を赤十字に送るのもいいとは思うけれど。地域が限定されており、具体的できめ細かい活動もわかり、人のつながりが感じられる点で、こうした民間団体を応援するほうに、私の気持ちは動く。



4月11日(月) 一ヶ月

大地震から一ヶ月。午後2時46分、テレビをつけて、黙とうを捧げながら、涙があふれてしまう。

被災地に行くべき。命を落とした人たちへの鎮魂と祈り。生きている人たちの朝(あした)と希望のために。ほかならぬ自分自身のためにも。現実を直視すべき。

が、このような精神状態で、つまりテレビの映像を観ているだけで、それはもうものすごい声が聞こえてくることに襲われて涙するような状態で、自分は果たして耐えられるだろうか。なにもかもが津波にのみこまれたガレキの大地に立ち、光景を目の前にして・・・。

終日、逡巡。



4月12日(火) 桜吹雪

福島第一原発。「レベル7」に引き上げられる。

昨日の枝野長官の口調がやけにはぎれが悪いと感じていたら、今日は管総理自らが話していた、レベル7。

なんとか「テラ」ベクトルとか、「京」ベクトルと言われても、?マークが飛び交う頭の中。たいへんな状況であることだけはわかるが、うまく想像することができない。なんだかへらへらしたくなるような気分に陥る。

午前中、目が覚めてから、しばらくNHKラジオ(番組:ラジオビタミン)を聴いていることがある。震災後、既に南相馬や石巻に何度も行っている医師・鎌田實さんも話していた。

今日は、途中、強い地震の情報で番組は中断されながらも、松本・神宮寺の高橋和尚さんが約1時間、被災地に入った時の様子を静かな口調で話されていた。

もっともショックだったのは、高橋和尚さんが南相馬で会った、自力で動くことができないおばあさんの話。

避難命令が出たために、息子夫婦たちはおむすび3個と「生き延びろよ」という言葉を残して、家を出て行ったという。おばあさんは置き去りにされたのだ。夜、電気がついているのを自衛隊が発見して、避難所に連れてきたのだという。

もっとも、おそらくこの家族には家族の事情があったであろうことは容易に想像ができ、私のような第三者が云々すべきことではないとも思っているが。

また、“ヴォランティア”の難しさ、いわゆる「善意の押し売り」ということについても考えさせられた。さらに、その地域から離れたくないと強く思っている人たちが相当数いることも知った。

鎌田先生や高橋和尚さんたち(日本チェルノブイリ連帯基金)は、感染症予防のために、「千人風呂プロジェクト」を立ち上げ、石巻の避難所に、ビニールでできたお風呂を設置した。

その作業をするのに、地元の人たちの協力も必要だったわけだが、こんなに疲れ果てているのに手伝えと言うのか、と当初はなかなか力を貸してくれなかったという。

で、その地域のリーダー的存在の人が間に入って信頼関係を作ってくれたことで、やっと事がスムーズに運ぶようになったという。人と人とが向き合うことで、血が通うような関係の中で、すべてが動いていく、という実感がこもった話だった。

正午頃、桜吹雪が舞うのを窓越しに見ることができるお店で、高校時代の友人たちとランチ。なんだか生きて会えることを幸せに思う。大地震の時、さらに以降の話をあれやこれやたくさんする。少し気が晴れる。

その友人の一人は老人介護施設でパートタイマーとして働いている。そして、最近、なんでもかんでも、詳細はwebで、こちらのホームページにアクセスしてください、という状況になっていることを憂う話をする。ついでに言えば、この震災を機に、NHKテレビが完全にそういう状態になったと思う。

15年前に起きた阪神淡路大震災の時、神戸に住んでいる友人の安否を一番早く知ることができたのは、PCメールだった。PCがものすごい勢いで普及したのはウィンドウズ95の発売の時だったが、震災が起きた(1月)のは発売(11月)前のことになる。ともあれ、パソコン通信仲間だった友人は、自身の生存をメールで伝えてきた。携帯電話はまだ普及していない頃の話だ。

そう思うと、今回の大震災の情報の伝達手段とその量というものは、阪神淡路の時とは比較にならない状態だろう。そうなのだ、PC、携帯電話、を誰もが持つ時代になっている。

・・・と言い切っていいものだろうか?

たとえば、友人がリンクしていた、木下黄太さんのブログに掲載されていた、石巻にある亀田総合病院で医療活動をされている医師からの報告。

「湊中学という避難所に行きました。リウマチの女性が手首を腫らし、痛みに耐えていました。

受診の手続きを取りましたが、彼女はその避難所から沖縄への移住を希望しました。沖縄は県をあげて受け入れをしていると、あるMLで知ったからです。

沖縄の担当者に連絡をすると、『罹災証明申請書のコピーが必要です』『沖縄の受け入れは、災害救助法ではなく県の予算なので、5人まとまったらはじめて飛行機に乗れます。飛行場までは自分できていただく必要があります。そこでチケットをお渡しします。』『申込書はインターネット上から、書式をダウンロードしていただき、印刷して書きこんでください』と、担当官に告げられました。

非常に困難な条件で、少なくともパソコンとプリンターを持った援助者と、飛行場までの足、罹災証明書の申請を行うために市役所に行くという手順をその足が腫れた女性が手配しなければ不可能なのです。責任者の方とお話ししましたが、埒があきませんでした。」

こういう方には、誰かが援助すればいい。と、誰もが思うだろう。では、いったい誰が彼女のために動くのだろう?こうしたことは、少なくともこの医師の役割ではないだろう。彼にはほかに果たさなければならないことが山のようにあるに違いない。

実際、被災地では、こうした“役割分担”が大切なことになっているようだ。

話は少し横にずれるが、私が住む町でも「災害対策本部からのおしらせ」というものが、小学校などに設置されているスピーカーを通して、町中に流される。ところが、この放送、よく聴こえる所とまったく聴こえない所、何を言っているのかさっぱりわからない所がある。

なので、私はこれを機に、市は危機管理体制をしっかり見直すべきではないかと、市長への意見箱にメールした。さらに、自治会組織を含めた“地域”のつながりについても、この際再検討してはどうか、とも。(引っ越してきて、自治会に入ろうと思ったら、拒否された人がいることを知った。どういうこと?)

もとい。

ともあれ、こうしたPC(それは電気によって稼働する)に依存する社会、もしくはインターネットという媒体が不可欠になっていく過程で、疎外されていく高齢者、あるいはPCを買えない人、それを使えない人などに対する配慮がどんどん欠けていくのは、私はよくないことだと思う。

また、そうしたPC環境がない人たちに対して、環境に恵まれている人たちが積極的に情報を伝えることなどが、人の善意だけではなく、社会の仕組みとしても必要になっているように、私には思える。

また、障害者などへの手助けも忘れてはならないことだと思う。で、こういう震災時に、特に被災された障害者を支援する組織があり、それには小室等(歌手)さんなどが深くかかわっておられる。先の阪神淡路大震災の時に、大阪で生まれた非営利団体だ。
NPO法人『ゆめ風基金』

政府や行政の目が届かないところに、たくさんの人が生きている。そのことを、とりあえずはまだ普通に暮らすことができている私たちは決して忘れてはならないと思う。



4月13日(水) 荒地

なぜだろう。本棚で、田村隆一が私を呼んでいた。ので、何十年ぶりかに手に取って読んだ詩集。

田村隆一は、1947年『荒地』の創刊に携わった詩人の一人。なんでも、吉本隆明は「日本でプロフェッショナルだと言える詩人が三人いる。それは田村隆一、谷川俊太郎、吉増剛造だ」と評しているらしい。

その詩集の奥付をめくったところに、20歳の時の自分の文章が、万年筆の青いインクで刻まれていた。のを、なんとなく気恥ずかしい心持ちで眺める。

やはり、どうやら昔から、私は詩の中に音楽を感じるようなものを好んでいたらしい。

以下、少しだけ断片的に抜粋。

・・・・・
 記憶せよ。
 われわれの眼に見えざるものを見、
 われわれの耳に聞こえざるものを聴く

・・・・・

 わたしのやさしい手は失われるものを支配する
 わたしのちいさな瞳は消えさるものを監視する
 わたしのやわらかい耳は死にゆくものの沈黙を聴く

・・・・・

 日没の時
 人は黙って歩いた

 人は黙って歩いた
 叫ぶことがあまりにも多かったから

 どこまで行くんだね
   ああ ああ と眼のない男が吐息をもらした

 どこから来たんだね
   ああ ああ ああ と耳のない女が鳴いた

(以上、「四千の日と夜」より)

・・・・・

 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

(以上、「言葉のない世界」より)

・・・・・

そして、宮澤賢治。

有名な「無声慟哭」からの抜粋。

もし自分があの大地に立って言葉を発するとするならば、多分、これ。

・・・・・

 こんなにみんなにみまもられながら
 おまへはまだここでくるしまなければならないのか

・・・・・

 どうかきれいな頬をして
 あたらしく天にうまれてくれ

・・・

感傷的に過ぎる、というご批判は甘んじて受ける黒田です。でも、おそらく、自分を立たせるには、今、自分には言葉が必要なのだろうと思う。そして、ひとつの音、さらに、この世界をふるわせる響き、が。




4月14日(木) YouTubeに

YouTubeに、今年2月28日に、大泉学園・inFでライヴ録音された音源がアップされています。(動画ではありません。)喜多直毅(vn)さんがリーダーのセッションで、共演者は他に瀬尾高志(b)さん。聴くことができる曲は「ふるさと」(作曲 喜多直毅)です。

これは、喜多さんのファンの方が、今回の大震災をきっかけに立ち上げた、“NEGAIchannel”にアップされたものです。現時点では、ほかに、鬼怒無月(g)さん、鳥越啓介(b)さんの演奏を聴くことができます。

「失われてしまった多くの命と日々の幸せを悼み、そして被災地はもとより全国で復興への遠い道のりを歩むすべての人にエールを送るために、素敵な音楽を集めようと思います」とのこと。



4月上旬、相次ぐ訃報に接する。

4月7日、かねてより病気療養中だった高円寺・JIROKICHIのオーナー、荒井ABO誠さんがお亡くなりになった。

2007年、坂田明(as)トリオで北海道ツアーをした際、とてもお世話になった。ABOさんご一家が北海道・当別に移住されてまもない頃だった。家のいろんなところが手造りで、私もできたばかりの木のベッドで休ませていただいたことを思い出す。ライヴでは何曲かいっしょに演奏もした。結局、ABOさんにお会いしたのは、この時が最後になってしまった。

4月8日、旅先のホテルで、金井英人(b)さんが急逝された。

金井さんとは、その晩年、時々共演する機会を持った。少し芝居仕立てになっている「三国志」にも参加したことがある。確か、初演だった(?)と思う。

日本のジャズ、特にフリージャズの草分け的存在だったと言っていいだろう。演奏する際の「気合い」は、お年を召しても衰えることなく、ベースアンプがハウろうがなんだろうが、「えーーーい」と演奏しまくる姿は目に焼き付いている。

これより前、3月21日、沖山秀子さん(女優、歌手)が天国に逝かれた。

沖山さんとは、一度だけ、共演したことがある。とても強烈な個性を持った方だった。私とはまったく違う生き方をしている人だと思った。

お三人のご冥福を心からお祈り申し上げます。



4月15日(金) 日本列島は

7月に予定されていた、広島県福山での大きな野外コンサートが中止になってしまった。国が絡んでいる催しなので、やむを得ない状況らしい。えーん、私、どんどん貧乏になっていく気がする。

それにしても、友人がリンクしていて知ったのだけれど、これ、すごい。こういうものを見てはいげません、という人もいると思うが、これが現実、なのだろう。余震もすごい。
http://www.japanquakemap.com/



4月16日(土) なぜだかブルーノート

夜、大泉学園・inFで、鬼怒無月(g)さんとデュオで演奏。

今回は、これまでやってきた曲に加えて、新曲もあり、さらに偶然お互いにオリジナル曲も1曲ずつ持ち寄って演奏した。

おそらく、私はほかの誰ともやらないような演奏を、鬼怒さんとのデュオでやっている。こんな風に自然に歌い、アメリカ生まれの曲をやる際に、ブルーノートを使っちゃう、なんてことは、今の私には、あまり、ない。聴いてきた音楽がある程度出てしまう、ということだろうか。ともあれ、楽しかった。



4月17日(日) やはり、歌

昨日、長渕剛(歌手)が宮城県石巻市、東松島市を拠点に救援活動する自衛隊などを慰問。航空自衛隊松島基地の飛行機の格納倉庫内で行ったライヴで、6曲歌ったそうだ。「約1500人の隊員は、肩を組んで声を合わせ、復興に向けて気持ちを新たにした」という報道。

ギター片手に、汗とつばきと涙を飛ばしまくりながら歌っている姿が目に浮かんだ。あっぱれ長淵、と私は思った。

ずっと気になっていた。津波に襲われた沿岸地域で、遺体捜索などをしている自衛隊の人たちのこと。さらに、福島第一原発で働いている人たちのことを。

自衛隊の人たちも豊かな食事などできず、お風呂にもろくに入れず(お風呂は被災者に貸し出しているらしい)、テントに4人で寝泊まりしていると聞いている。たいへんだと思う。

それに、ベトナム戦争を体験した多くのアメリカ兵がPTSDに悩んでいると聞いているが、がれきの中から亡くなった方たちを手作業で探すという活動は、肉体的にももちろんのことながら、精神的にも相当きついのではないかと想像する。

また、沿岸部では水産加工会社に貯蔵されていた魚などが、だんだん腐っているという。その臭いもものすごいと想像される。それに放射能汚染地域で活動している人たちもいる。その地道な活動に、心の中でエールを送る。



4月18日(月) スキヤキ

と、避難所で過ごしている人たち、自衛隊員、原発で働いている人たちのことを想いつつも、夜は「上を向いて歩こう」ということで、母と久しぶりにすき焼きを食す。ここのところ、母の体調も安定していて、それだけでも幸せだと思う。

福島第一原発で働いている人たち。彼らのために、健康管理支援で入った医師の報告を読み、NHKで放映されたものを観る。

実際、働いている人たちのほとんどが自らも被災されている人たちで、中には家族を失った人もいるという。でも家や避難所に帰れず、懸命に働いているそうだ。放射能汚染の危険の中で。

当初は原発施設内の廊下で、ただ横になっているだけとも聞いていたが、今は第2原発の体育館で寝泊まりできているらしい。でも、満足な蒲団などなく、しかも、防護服を着たまま寝ているという。

また、当初は、食事もビスケットとジュースなど、1日2食。今は少しは改善されたようだが、それでもレトルト食品や缶詰らしい。

そのあまりの環境のひどさに、東京電力という会社に無性に腹が立ってくる。もっとなんとかならないのだろうか。ともあれ、現場で働いている人たちのストレスを想わずにはいられない。



4月19日(火) ガーシュイン

夜、上野・アリエスで、金丸正城(vo)さん、佐瀬正(b)さんと演奏。

先月の大地震の時、金丸さんはご自宅にいらっしゃったとのことだったが、マンションの上階に住んでおられるので・・・ということで見せていただいた写真。食器は粉々に割れ、本やCDはすべて散乱し、それはすごい状態だった。

そして、2ステージ目に、金丸さんがゆっくりとしたバラードで歌われた、G・ガーシュイン作曲「 Our love is here to stay」。私はこの曲を初めていい曲だなあと思った。

この曲は歌われる機会が実に多いと思うが、たいていの人はノリノリの4ビートで歌うことが多い。で、私はいつもなんとなくどこかで違和感を抱いていた。

こうした大震災の時に、この歌をうたうことについて、金丸さんが前置きで話されたことも作用しているとは思うが。大震災を経験した私たちには、ものすごいリアリティをもって迫ってくるようで、少し胸がつまった。

その後半の歌詞。
In time the Rockies may crumble,
Gibraltar may tumble,
They're only made of clay,
but our love is here to stay.



4月20日(水) フルートとダンスと

夜、学芸大学・珈琲美学にて、Miya(fl)さん、JOU(dance)さんと、基本的に、即興による演奏とパフォーマンス。曲も何曲か。また組み合わせによる即興も。

前半、MiyaさんとJOUさんの完全即興によるデュエット。なんとなく終わるタイミングをはかりかねている雰囲気を感じて、途中で演奏に加わる。その前に、一度、入れるタイミングはあったのだけれど、逃した。

後半、JOUさんとのデュエットで、JOUさんが「歌いたい」というので、歌ってみれば?ということで、彼女の歌から。にゃんにゃん、わんわん、から入るとは思っていなかった。油断していた。ので、私もニャアと対応。

というようなこともあった、楽しいひとときだった。



4月21日(木) 春のくりくら

午後、太極拳の教室に1時間だけ出席して、早退。

夜は門仲天井ホールと共同企画主催している『くりくら音楽会 vol.8 〜ひとり、ピアノ〜』の第1回目。

今回のシリーズでは、参加するピアニストたちからの強い要望により、ピアノの調律を辻秀夫さんにお願いした。今日も午後1時から作業を始められ、調律のほかにも、ピアノの状態を最高の状態にするべく、いろいろ努力してくださった。もちろん“辻ボード”も登場。

のみならず、途中で演奏者が変わることを気に留めてくださり、間の休憩時間にも手直しをしてくださった。これまでの『くりくら』にはなかったことだ。

さらに、終演後の打ち上げまで参加してくださり、感謝の言葉もない。ほんとうに、いっしょに音楽を創っている、という気持ちになる。

演奏の順番は、2人が会場に入ってから決まったのだが、前半は森下さん。JSバッハやサティの小品もはさみながら演奏。ご本人曰く、1人のピアニストに与えられた45〜50分という時間をうまく使えなかった、自分のテンションをうまくコントロールできなかった、とのことだったけれど。

西山さんはご自身がめざしている音楽の質感や雰囲気を大切にしながら、丁寧に演奏されていたように思う。森下さんの演奏を聴いて、あらかじめ考えていた曲を変えることにしたと言っていたが、そうしたことも、こういうコンサートの妙味のひとつかと思う。

最後、アンコールで、2人で連弾を披露。丁々発止という感じで、2人とも笑顔でピアノを弾いていたことが印象に残る。

実際、もっとたくさんの人に足を運んでいただきたかったと思う。大震災の影響もあったと思うが、こちらの宣伝も行き届かなかったかもしれないと反省。ともあれ、もったいない・・・。

このシリーズ、5月、6月と続きます。ぜひおでかけくださいますよう。



4月22日(金) ファツィオリ

その名も「ソウルトレイン」作戦。

この名前を聴けば、当然、あの「ソウル・トレイン」を思うのは、ジャズを知っている人なら、誰でも、だろう。ジョン・コルトレーンのプレスティッジの名盤。

「ブルー・トレイン」(ブルーノート)も含めて、私はあの頃のトレーンの音色、なんとも言えない硬質な空気感が大好きだ。あら、私が生まれた年に録音されているんだわ。

ということとはまったく関係なく、こう名付けられた作戦とは、宮城県、仙石線の復旧のために、昨日から自衛隊と在日米軍が東松島市・野蒜(のびる)駅周辺のがれき撤去を始めたことを指す。

これは米軍の大規模支援「トモダチ作戦」の一環で、魂(ソウル)を込めて列車を通そうとの意味だという。29日まで続けられるそうだ。

もう1つ、ニュース。

昨日、ぴあ株式会社(東京)は、エンターテインメント情報誌「ぴあ」の首都圏版(現在、隔週刊)を7月21日発売号で休刊することを決めたそうだ。創刊されたのは1972年。

特に、大学時代からジャズを習っている頃(主として20代)、とてもお世話になった。

この雑誌を片手にキャンパスを歩いていると、なんとなく文化の最前線を知っているかのような錯覚に陥ったものだ。なんちゃって。

また、どこのライヴハウスで、誰が演奏しているかを、探しまくったものだ。当時はインターネット上でコンサートのチケットなんか買えないので、プレイガイドと呼ばれる窓口に朝から並んでチケットを求めた。もちろん、片手にはぴあ。

ともあれ、この雑誌に満載された情報は、当時はとても貴重だった。休刊とのことだが、実質、廃刊だろう。一つの時代が確実に終わりを告げていることを感じる。

そういえば、ぴあの別冊のために取材を受けたことを思い出した。と、探してみると、『ぴあピープルファイル '90年代人物辞典』というもので、1988年12月20日に出たものだった。

「1955年生まれ以降の若い世代の仕事やメッセージを通して、来たるべき'90年代を占えたら。そんな想いが本書のかたちになった。」

「本書では読者の便をはかるために、200人の方々をジャンル別に掲載したが、ジャンルの枠を越えて活躍している人の多さには正直驚いた。彼等をいずれかの枠にあてはめる作業は、生産的とは言い難い。」

ふう、遠い目。こんな、時代も、あったねと・・・。

夜、イタリアのピアノ、ファツィオリのショールームへ、1977年生まれのピアニスト、アンドレ・メーマリの演奏を聴きに行く。ブラジルでは、若手ナンバーワンのピアニストだそうだ。ちなみに、今日は彼の誕生日とのこと。おめでとう。

会場で、林正樹(p)さん、新澤健一郎(p)さん、松田美緒(vo)さんなどに会う。美緒ちゃんとの思いがけない再会に、なんだか少し涙ぐみそうになる。

演奏する姿よりも、音色や響きを感じられるであろう席に座ったこともあるが、ファツィオリの音色は、彼の弾き方にもよるとは思うけれど、なんというか、とてもかわいているように感じられた。私はもう少し陰影と深みのある響きが好きかもしれない。そして、この楽器は奏でられる音楽を選ぶような気がした。



4月23日(土) なぜかタクシー

夜、渋谷・公園通りクラシックスへ、喜多直毅(vn)さんが新しく立ち上げたカルテットの演奏を聴きに行く。副題(?)に、「新・東北音楽紀行」とある。

かなり変わったセッティングだが、基本的には、喜多さんと私が続けている『軋む音』を元にしていると聞いた。全員、生音。

私は客席後方で聴いたが、おそらく聴く位置によって、その聞こえ方はかなり違うだろうと想像する。私の位置では、ややバンドネオンが聞こえづらく、ピアノとコントラバスの中低音域がぼわっと聞こえてくる感じだった。

あらかじめプログラムは配られており、アンコール曲はない、と書き添えられている。なんだか喜多さんらしい。単に、演奏する曲はこれ以上ないという表明だったかもしれないけれど。

4人が浮かびあがってくるような、押さえられた照明の中で、音楽が聞こえてくる。最初の印象。なんてあたたかい。

それはおそらくコントラバス奏者(田辺和弘さん)とピアニスト(三枝伸太郎さん)が奏でる音色に寄っているように思う。作曲された音楽自体は、短調が圧倒的に多いし、硬質だし、内容もかなり厳しいものにもかかわらず。

全員がタンゴを学び、タンゴ魂のようなものを内に抱えていることは、ジュンバなどの強いリズムがうねりを生んだ時に、まっすぐに伝わってきた。

その時、私の目に見えたのは、なぜか、よくお祭りで見る“竜”が上下左右している映像だった。うまく言えないが、何かそういう生き物が、息を吐きながら動いている感触に近かった。

惜しむらくは、細かいリズムを刻む時に、4人の呼吸がもっと合ってきたら、もっと良くなるように感じた。

また、ピアニッシモの密度や精度のようなものももっと研ぎ澄まされてくると、力強いフォルテやタッチとのコントラストがくっきりして、さらに心地よい緊張感に満ちた空間を生み出していけるように思えた。

時として甘美な音色と、凛々しいリズム感覚によって、カルテット全体のサウンドは、これからもっと振幅のある、深い響きを持ったものに成長していくように思った。

そして後半、「酒乱」と題された曲を聴き、なんだかわからないけれど、喜多さんはまた山を1つ越えられたように感じた。自分を相対化しようとする意思を感じたのかもしれない。

今宵、ここには、真摯に自分に向き合っている音があり、音楽があったと思う。思えば、喜多さんと初めて出逢ってから約10年。自分の力でここまで闘ってきた彼を、私はリスペクトする者の一人だ。

また、北村聡(bandnenon)さんも、たとえば、喜多さんと3人でユニットを組んでやっていた頃(2009年)を振り返ると、その頃には決して見ることができなかった表情や呼吸で演奏しているように感じられた。「鉄条網のテーマ」で聴くことができたアドリブの時に、そう感じた。

本人にも伝えたが、おそらく、北村さんは小松亮太さんとは違うバンドネオンの音楽の領域を切り拓くだろう、と私は思う。きっと、これからまだまだ変わる。

終演後、聴きに来ていた鬼怒無月(g)さんも交えて、みなさんと打ち上げで食事。ワタミ関係の居酒屋に入ったら、いやはや、学生たちの元気過ぎること。うるさい。でも、学生時代はああだったよなあ、と思いだす。夜中12時をまわって、すべての団体客が帰った後の静けさにほっとする。

その後、なんだかまっすぐ帰る気持ちにならず、ドレスに寄って、真夜中にタクシーで帰宅。散財。ごくたまに、年に1〜2度、えいっ、今日はタクシーだぜい、1万円さようなら、という気分になる。貧乏だっちゅうに。



4月24日(日) 地方選挙

地元の市議会議員選挙の投票に行ってから、出勤。ちょうど皐月賞(東京競馬場で行われるのは、多分初めて?)が終わった頃と重なって、市内はやや渋滞していて、抜けるのに時間がかかってしまった。

夜、横浜・バーバーバーで、田中淳子(vo)さんたちと演奏。楽しく、ジャズ。



4月25日(月) 紙芝居

午後、坪井美香(女優/朗読)さんとリハーサル。

彼女が提案した『ねこ はしる』(工藤直子 著)。とてもいいお話しで、しかも、私が紙芝居をみつけてしまったので、今回(5月7日(土) at 代々木八幡・さくらんぼ)は、紙芝居と朗読と音楽、に挑戦してみることに。

演奏するだけではなく、紙芝居の紙をめくる練習もせねばならなくなったぞ。んでも、すこぶる楽しい。

坪井さんとは、初めて出逢った時にやった、草野心平さんの詩も含めて、少しずつきちんと作品化していけそうな雰囲気があり、これからも楽しみ。




4月26日(火) 門天プロジェクト

日頃お世話になっている門仲天井ホールが『東日本大震災 復興支援 門天プロジェクト』を行うということで、その第1回目に参加することにする。

この門天プロジェクトは、東日本大震災によって被災された人たちへの、東京での後方支援として取り組まれるもので、パフォーマンスやコンサートなどのイベントを通して、復興支援をしたいと考えているアーティストたちに、来月(5月)から来年3月まで、ひと月に1回、会場を無料で提供するというものだ。

私は若い女性歌手2人、渡邊奈央さん、門馬瑠依さんを誘って、「うたとピアノの音楽会 〜くろりんと仲間たちによる楽しいコンサート〜 ひとつひとつの歌に祈りをこめて」ということで、このプロジェクトで演奏することにした。

詳細はこちらへ。

  門天プロジェクトのページ

  拙web内の詳細ページ(Topics)

1コイン(500円)の気軽なチャリティーコンサートです。土曜日の夕方、みなさん、どうぞ気軽におでかけください。



4月27日(水) 支援先

チャリティー・コンサートに参加するにあたって、集まったお金をどこへ送るか?ということを、私は大切なことだと考えている。それで、支援先について、あれこれ調べてみる。

そして、かのweb「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されていた、ちょっと気になる活動を2つほど発見。

1つは、RQ市民災害救援センター

地域は宮城県沿岸地方に限られるが、先に書いた岩手県の民間復興支援団体「結 ゆいっこ」に近い活動をしているように思われる。webを見ただけだけれど、日本赤十字社や中央共同募金会、被災地域の各自治体やその災害対策本部などに送るより、人の手や顔が見えるように感じられた。

また、サイト内を観ていたら、私の友人の旦那様が深くかかわっていることがわかった。彼は既に被災地に入ってボランティア活動をしていて、その事後報告をしている様子が、動画でアップされていた。

もう1つは、セキュリテ被災地応援ファンド

その考え方がとても面白いと思った。



4月28日(木) 無番地生まれ

2〜3日前に、ベルリンにいる高瀬アキ(p)さんからメールが届いた。

大震災の支援先についても助言を求められ、それに応えた。ドイツでも、連日、日本の大震災のことが非常に過剰にドラマチックに報道されているとのことで、アキさんの元にも各メディアから数多くの連絡があったらしい。さらに、チャリティー・コンサートでは1000人以上の聴衆が集まったとも。

とりわけ、福島原発事故のことに関心が高いらしく、ドイツ人にもっともよく尋ねられることは、「被爆国、地震国の日本が、どうして50個以上ものAKW(原子力発電所)を持っているのか?」ということだ、と書き添えられていた。

また、日本の政府の対応やヴィジョンのなさを、怒りと共に嘆いておられる文の中に、「ソフトバンクの孫正義ようなビジョンを持った人が、どうして政府機関に携わっている中にいないのか、不思議でたまらない」とあったので、この孫さんのことについてちょっと調べてみた。

らば、たとえば、
http://www.youtube.com/watch?v=DYjooacju_8&feature=related

孫さんが無番地生まれの人だったとは知らなかった。永山則夫のほかにも無番地生まれの人がいたことに、少なからずショックを受ける。あのCMの白い犬の意味も含めて、孫さんが在日であることは知っていたけれど。

それにしても、こういうのを見ると、政府、官僚はほんとにだめだなあと、つくづく思ってしまう。
http://www.ustream.tv/recorded/14169488

でも、正直、私の中には相反する気持ちがある。それはたとえば何かに対して怒っていると、いずれ自分の身にふりかかってくる感じと、少し似ているかもしれない。自分に対する嫌悪感みたいなものが生まれてしまう。

なので、上記の福島のお母さん。ものすごーーーく気持ちはわかる。でも、どうしても、そのまま同情できない気持ちが湧いてくる。そのまま感情移入できない自分を感じる。突き詰めて行くと、人間のエゴイズムの問題へ降り立って行くように感じるからだろう。



4月29日(金) 学者の言うこと

今日、内閣官房参与の小佐古敏荘(こさこ・としそう)さん(東大大学院教授、61歳)が、記者会見を開き、参与を辞任する意向を表明した。
http://www.asahi.com/politics/update/0429/TKY201104290314.html

菅政権の福島第一原発事故対応について、「法律や指針を軽視し、その場限りだ」と批判し、特に、小学校などの校庭利用について、文部科学省が採用した放射線の年間被曝量20ミリシーベルトという屋外活動制限基準を強く批判した。

テレビでは涙をぬぐう光景も放映されていたが、この学者はかの浜岡原発を推進し、絶対安全だ、と言っていた1人だそうだ。うんむう・・・。まるで戦後の「転向」のようではないか。

また、鎌田實さんがブログに書いておられたことによると、これより以前、こういう学者もいたらしい。

憂うべき国。
けれど、愛する国。

みんなでがんばろうとか、日本はひとつ、とか、私は決して言わないけれど。



4月30日(土) ドイツの状況/ロシアのうた

たとえば、読売新聞の「4月30日現在、義援金が給付されたのは約一割、という報道。

上記の報道が事実かどうかは別として、私はやはり義援金、支援金は、現地に入って具体的な支援活動をしている団体や組織を応援するために送りたいと、あらためて思う。

また、再び高瀬アキ(p)さんからのメールに、放射能の危険を感じて、一時でも日本を脱出したいと考えている人(たとえば、これから赤ちゃんが欲しいと考えている若いカップル、しばらく海外に滞在することを考えているアーティストなど)を受け入れる機関があるとの連絡。
Open Home Project

上記、既に、これを利用して、住み始めている人がいるそうだ。

また、ドイツ大使館に登録された義援公演も連日あり、大使館に登録することなしに行なわれている小さな催しもたくさん行われているとのことで、義援金を集めて日本に送るアーチストが多いそうだ。このwebを見ただけでも、かなりの数の公演が催されていることがわかる。

他の国ではどうなんだろう?



夜、西荻窪・音や金時で、初めて演奏する。ロシアの歌をうたう石橋幸(歌手)さんのライヴで、他に、翠川敬基(vc)さん、向島ゆり子(vn)さん、小沢アキ(g)さん、石塚トシ(ds)さん、というメンバー。

石橋幸さん、通称、タンコさんと共演するのも初めてだ。小沢さん、石塚さんとも、はじめまして。石塚さんと言えば、私にとっては、三里塚闘争で演奏する頭脳警察の白黒映像の中にいた人だ。そして、振り返れば、翠川さんと演奏するのも1年以上ぶりのことになる。

このライヴハウスにはピアノはないので、谷川賢作(p)さんがお店に置いているというキーボードを借りて演奏させていただく。ほかにアコーディオンも少しだけ。

ロシア民謡というものに初めて深くかかわって、これがたいへん面白いと感じる。アメリカは皆無。ブルーノートなんて、ない。タンゴとフラメンコとシャンソンと1920〜30年代のカバレット・ソングを混ぜたようなテイストに感じられる。

また、今回、ピアニストの私が呼ばれた理由の1つに、ワジム・コージンというロシア人歌手の曲をやる、ということがあったらしい。この人の作る歌が、これまたすんばらしい。他のロシア民謡(たとえば、カチューシャのような)とは、もう全然質が異なる。それはアルゼンチン・タンゴとピアソラのタンゴくらいに、おそらく違うと想像される。

このタンコさんとのライヴ、これから、毎月末、この音金で予定が組まれている。お時間のある方はぜひ一度。






2011年3月の洗面器を読む

2011年5月の洗面器を読む

『洗面器』のインデックスに戻る

トップページに戻る