1月
1月1日(日) 初春

初春
みなさまにとって
おだやかですこやかな一年でありますように

って、元旦から大地は容赦なく揺れましたね。正直、もう勘弁して欲しいと、涙目になりました。それでも、今月で喜寿を迎える母と無事に年を越せたことをうれしく思います。

大晦日はNHKの紅白鑑賞。実にNHK的健康さに満ち溢れていたと思います。また、特に前半は、なんだか無駄に人数も多く、演出も過多だったように感じました。

番組中、「原発」の二文字は誰も言わないだろうな、というか、言うな、という状態だろうなと想像していたのですが、石巻の津波の被害に遭った小学校の前で歌った長淵剛だけが口にしていましたね。

また、レディ・ガガが歌った曲の訳詞。これについて、友人がリンクしていたのですが、たとえば、
http://sanpoapril.blog104.fc2.com/blog-entry-167.html
といったこともあるようです。

NHKの報道を見ていて、代議士や記者が、原発問題や住民や子供たちの避難について言及した途端に映像が切り替わる、という瞬間を何度も見ていることもあって、今さら言うことでもないとは思いますが、私はその内容をかなり慎重に読み取るようになりました。

もちろん、年末年始にかけて、深夜に、Eテレの方でまとめて再放送されている、震災や原発にかかわる「ETV特集」などを観れば、ドキュメンタリー番組の制作者には、地道に取材を続け、気骨のある人たちがいることは、充分にわかるのですが。

さてはて、今年はどんな一年になりますでしょうや。
しっかりとした眼と耳を持って過ごしたいと思います。って、眼も耳も既に壊れているし、足腰も、ついでに頭もやばいかもお。
という私ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

(昨年、9月半ばに長い北海道ツアーに出て以来、この『洗面器』を更新できずにいて、すみません。ま、気が向いたら、ぼちぼち書き埋めるかもしれませんが、しないかもしれません。)



1月2日(月) 年賀状

今年は少し減らしたいと思いながらも、結局、現時点で200通近く年賀状を出しています。冗談抜きに、生存証明といったところでしょうか。

ところが、先月20歳になったばかり、今月9日にめでたく成人式を迎える姪っ子の話を聞けば、元旦に彼女のもとに届いた年賀状は、たった1通。しかも、行きつけの美容院からのものだけ、とのこと。友人たちなどとの年始のやりとりは、すべてメールやツイッターだそうです。

聞けば、個人情報保護法のもと、小学校の時のものから、そもそも「名簿」というものが手元になく、住所がわからない、のだそうです。

このような現実に、一瞬、私は唖然としましたが、万年筆を持って字を書く、ということが、ほんとうに消えていっている時代であることを実感しました。

そういえば、若いミュージシャンからもらう名刺には、もはや携帯電話の番号とメールアドレスのみが記載されている、ということが珍しくなくなりました。そうです、やはり住所がないのです。

ま、今や、2歳の子さえ、当たり前のように、指をすべらせながら小さな画面を操作している時代ですから、何をか言わんやかもしれませんが。

PCに詳しい友人がいた関係で、割合に早い時期に、PCの世界には触れていたとは思っている私ですが、最低限必要なことだけやっているので、そのスキルは全然あがっておらず。いやはや、時代についていけるかなあ、私・・・。



1月3日(火) 文体

昨秋、久しぶりに、作家・村上春樹の文章に触れました。昔はよく読んでいたので、本棚の一段分くらいは単行本が揃っているのですが、前回購入した『東京奇譚集』以来のことになると思います。

読んだ本は『バット・ビューティフル』(ジェフ・ダイナー 著・村上春樹 訳/新潮社)。村上春樹が翻訳している本です。

もう、どうしようもない、ぶっ壊れた、普通の日常生活を送るには人格的に破綻しているジャズ・ミュージシャンがとりあげられています。その音楽はもちろんのこと、エピソードや残っている映像やインタビューなど、いろんな資料をもとに、評論集というより、短編小説、あるいは一枚の絵あるいは写真の印象を次々に語っている散文詩のような面持ちのある本だと思いました。

ちなみに、本の最後に、著者の「評論」が掲載されていますが、私はこの部分は読んでいません。というか、あまり読む気がしないままでいます。(村上春樹も、ちょっと?という感じのことを書いています。)

手法が少し変わっていて、奇妙な手触りを残す本でした。どう言ったらいいでしょう、ある一枚の切り取られた光景から、その音楽や人間が、ある時はふわあっと浮かびあがってくるように、ある時は間近でじっとみつめられているように、こちらに伝わってくるような感じです。

たとえば、最初のレスター・ヤングの章のタイトルは「楽器が宙に浮かびたいと望むのなら」。チャールズ・ミンガスは「彼のベースは、背中に押しつけられた銃剣のように、人を駆り立てた」。この一文だけでも、既に音楽が聞こえてくる心持ちになりませんか?

さらに、各ミュージシャンの章の間に、旅をしているデューク・エリントンの小さな物語が差し挟まれています。

実際、この翻訳にあたって、村上春樹はかなり苦労したようです。が、長年ジャズを聴いている訳者の言葉への繊細な配慮、やわらかい文章、そして文体によって、このどーーーしようもない人間たちの、どーーーしようもないいとおしさが、そういう風にしか生きられなかった人間と音楽が、静かに語られていると思いました。

本のタイトルである「But Beautiful」(スタンダード・ジャズの曲名でもありますが)にこめられた思いは、痛みを伴って、私の心に響きます。

そして、今日、読み始めたのは、先月、書店に足を踏み入れたら、目の前に平積みになっていた白い本、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾×村上春樹/新潮社)。

冒頭の「始めに」を読んだだけで、ああ、村上春樹がいる、と感じます。これから、読みます。




1月7日(土) 漱石終焉の地

午後、友人たちと待ち合わせて、早稲田にある漱石公園に行ってみました。大学の卒論では漱石の作品のことを書き、しかも大学から近かったにもかかわらず、一度も行ったことがない所でした。・・・失格じゃん。

そこは、明治40(1907)年から、大正5(1916)年に漱石が亡くなるまで住んでいた「漱石山房」があった所で、漱石はここで「三四郎」以降の小説などを執筆しました。で、現在は、その地の一部が「新宿区立漱石公園」となり、一般公開されています。

敷地の中には、漱石山房の外観を再現した建物(って、壁だけ)や、「道草庵」と名付けられた、ほんとに小さな小屋がありました。復刻本や写真などが展示されてはいましたが、なんだかあまりやる気がなさそうな管理人さんと同様、ただそこにあるだけ、の雰囲気でした。

入口には、漱石の銅像があり、それは富永直樹氏によるもので、「則天去私」の文字と俳句が一首、両脇に刻まれていました。

ちなみに、漱石の奥さんの名前は“鏡子(きょうこ)”と言います。どこかで聞いたことがあるような名前ですが。二男五女の子供を授かった家族でしたが、五女の雛子は1歳で亡くなっています。漱石自身が「なぜこんなに子供が生まれるのだ?」などと、とぼけたことをどこかに書いていたことを、妙に憶えています。

ともあれ、漱石は英国留学中に神経衰弱、さらに癇癪持ち、胃潰瘍を患っていたそうですから、この夫婦の相克は想像にかたくありません。

その後、学生でにぎわっている喫茶店で、おいしいチーズケーキとコーヒーを飲みながら、友人たちと談笑。もっと話していたいと思いましたが、夜は年明け初のライヴ。後ろ髪を引かれながら、早稲田をあとにしました。

ということで、夜は、渋谷・公園通りクラシックスにて、黒田京子トリオのライヴ。喜多直毅(vn)さん、翠川敬基(vc)さんと。前半の即興演奏は緊張感のある、いい内容だったと思います。あの3曲だけで充分だったかもしれない、とさえ思うのですが、では、私が作った曲の演奏は何だったのだろうと自問してみたり。

新年ということもあり、終演後はやけにリーズナブルな居酒屋で打ち上げ。その席で、正直、翠川さんからかなり強引に迫られ、3月に、シューベルト作曲「アルペジオーネ」を演奏することに・・・。「一晩待ってください」とお願いしましたが、また胃が痛くなってきました。ああ、どうしましょう。



1月8日(日) アルペジオーネ

そういうわけで、「アルペジオーネ」。

やはり、以前やりかけて、結局やらなかったことがわかりました。おそらく、私が長いツアーに出るか何かで、練習ができないので、お断りしたのではなかったかと思います。

その証拠に、あら、なぜか、譜面のコピーが自宅に。さらに、かなりやる気になっていたのかもしれませんが、CDの棚には、あら、5枚ほどあるではありませんか。

で、まずは聴いてみました。ロストロポーヴィッチ(vc)、マイスキー(vc)、バシュメット(viola)など。

思案した挙句、練習する時間を捻出するのはちょっとたいへんかと思いましたが、やってみることにしました。

それにしても、この曲の第一印象は、実に甘い。チェロ(あるいはヴィオラ)が奏でるメロディーのたおやかさといったら。ピアノはほとんど伴奏という感じですが、これに私はどう挑めばいいのだろうと考えています。

夜は、再び、渋谷に出かけました。今宵は、坂田明(as)トリオで、ドレスで演奏しました。お店に着いていきなり「今日はフリージャズじゃないから、即興演奏でいいから」と私たちに言った坂田さんでした。ということで、すべて、即興演奏でライヴは行われました。



1月9日(月・祝) 成人式

妹の子供、つまリ姪が、めでたく成人式を迎えました。あのモンチッチのような女の子が、と思うと、感慨はひとしおです。

それにしても、派手、です。振り袖も帯も、美容院でやってもらった髪もお化粧も。眼に外国人のように見えるコンタクトレンズを入れていることもあって、眉毛は茶色いし、まつ毛はびょんびょんだし。なにゆえ、ここまで?と思ったりもしましたが、イマドキ、なのだそうです。

イマドキと言えば、彼女は市の成人式典にも出席したそうですが、今は、高校を卒業して初めての同窓会というのが、この成人式の時にあるのだそうです。なにせ女子校でしたから、その様子は目に見えるようです。そりゃあ、リキが入るというものでしょう。

彼女は早く結婚したいと思っているらしいので、それならば、早いとこ、母にひ孫を見せてあげてね、と思ったりする、親不孝な私でした。



1月11日(水) 税制改革

午後、セミナーにでかけました。現在、据え置きになっている、相続税の改正(改悪)などについて、話を聴いてきました。うーん、やはり私は母との同居をしないといけないかもしれません。

控除が大幅に見直される案を提出しているのが民主党。それに反対しているのが自民党。なので、こう政権が不安定では、まったく見通しが立たない、ということでもあるようです。

それにしても、野田内閣。私とほぼ同じ年齢の総理大臣なわけですが、11月11日のTPPの協議に参加する旨を表明し、12月16日に福島第一原発の冷温停止状態を宣言した、この人。特に原発問題に関しては、インターネットのおかげで、テレビや新聞が決して報道しようとしないことがわかる時代ですが、なんというか、ひどい国だなあと思うことが増えた私です。



1月12日(木) 太極拳

今年も続けていくつもりです、太極拳。とはいっても、この“さわやか教室”では、太極拳というよりも、練功十八法(中国の体操)と五功八法(太極拳の動きの基礎)が中心のクラスになっているのですが。

とはいえ、自分の身体への意識が、少しずつ養われているように思います。それは自ずと、呼吸や精神状態にも影響しているように思います。

この感覚は、おそらく世界観にも敷衍されると想像していますが、身体の動きが全然ダメなので、到底そうした境地には達せそうにありません。せいぜい、ほんのちょっとだけ“気”のようなものを感じられるようになったかも、という感じでしょうか。



1月14日(土) 岡崎

午前中の新幹線こだまに乗って、豊橋へ。そこからさらに電車に乗って、東岡崎駅まで。今日は、坂田明(as)トリオで、愛知県岡崎市にある、岡崎市図書館交流プラザ「りぶら」でのコンサートで演奏しました。

ここの図書館には“内田修コレクション”が保存、展示されているそうです。そして、内田先生(無数のジャズミュージシャンの世話をされたお医者様)は、今日、「ジャズの街 岡崎 名誉顧問」になられたとのことでした。

久しぶりに内田先生にお会いしましたが、車椅子での移動になられてはいるものの、いえいえ、お元気そうなご様子で、うれしく思いました。「いい女だね」と、誰も言ってくれないことまで、私に言ってくださいますから、すてきです。



1月15日(日) 紅白のどぶろく

午後、再び、新幹線こだまで帰京。いなり寿司に、いろいろな竹輪がアレンジされたお弁当を、駅で買いました。残念ながら、私はすべてを食べ切ることができませんでした。竹輪の食感がどうも・・・。いえ、竹輪はおいしかったのですが、いかにせん、私には油揚げの味付けが高濃度過ぎました。それにしても、こういう発想やアレンが、いかにも・・・。

車中、小澤征爾と村上春樹の対談集(新潮社)を読み進めました。読んでいると、音源を聴きたくなり、スコアを見たくなって困りました。ということで、スーツケースをひきずりながら、帰宅したその足で、どうしようか迷っていた小澤とサイトウキネンが演奏した、ブラームスの交響曲第一番のCDを買ってしまいました。

夜は、18日に喜寿を迎える母の誕生日をお祝いしました。北海道から紅白のどぶろくをいただいたので、それを持参して、みんなで鍋を囲みました。ちょっと飲み過ぎてしまったのか、帰宅してから、頭がガンガンしてきて困りました。



1月16日(月) 調律

もう20年以上のお付き合いになる調律師・辻さんにお願いして、自宅のピアノを調律していただきました。これまでと同様、最初の2時間くらいは全然音が鳴りません。今回は、鍵盤もきれいに磨いてくださいました。すべすべです。結局、5時間余りをかけて、作業をしてくださいました。心から感謝。

辻さん曰く、今回の出来は、これまででもっとも納得がいくものだそうです。そして「このピアノは今がピークかな」と。このピアノは、私が出版社に勤めている頃に貯めたお金で、自分で買った念願のグランドピアノですが、なんだかうれしいです。

その調律作業中、私は辻さんを一人家に置いたまま、予約していた整体に行きました。久しぶりにみっちりやってくださった先生には感謝です。偏頭痛が消えました。

とても社会貢献意識の強い女性の整体師さんで、鎌田實さん(医者)との講演&公演にも来てくださったりしています。今日は整体の後に、いろいろ話をする流れになりました。昨年末に代々木に新しくできた“代々木ヴィレッジ”にも、彼女は協力しているそうです。

さーて、体調も整え、ピアノも調整され、あとは練習、でしょうか?って、ですね。



1月17日(火) 青白き光

昨年の晩秋、消息を絶っていた友人が突然メアド変更の連絡をしてきたのですが、その友人がまた突然に一冊の本を送ってくれました。

『歌集 青白き光』(佐藤祐禎 著/いりの舎)

大震災直後、ツイッターでつぶやいていた和合亮一さんの詩は読んでいました。彼の朗読は、昨夏に行われた大友良英君のフクシマのイベントや、年末に佐渡裕さんが指揮をとった“一万人の第九”で、テレビで放映されたものを観ました。

誤解を招く表現になるかもしれませんが、どう言ったらいいでしょう、和合さんの詩が、いわば詩的に抽象化されて、言葉が空中を舞いながらこちらに響いてくる感覚だとすると、それとは異なり、この佐藤さんの短歌は、土で汚れた自分の両方の掌をじっとみつめる感覚に似ているように思います。

そこには、人間のエゴイズムに対する苛立つような思いが根底にあり、その言葉は、まったくストレートに、読む者の胸をえぐるような強さを持って、こちらの心に届くように感じました。まさしく、その土地で生活している人の、低い叫び声のようなもの、が聞こえてくるように思いました。アララギ派に属する、というのも頷けます。

この佐藤さんが住んでおられる(おられた)所は、福島第一原発がある、大熊町です。農業を営んでおられる方です(でした)。

たとえば、この歌集の一番最後の短歌は、

いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め
原子炉六基の白亜列なる

です。

この歌集のタイトルは、この短歌から取られたそうです。また、この歌は、平成14年に起きた原発事故を、東電が隠蔽した時に作られたものです。

ただし、この歌集が出版されたのは、平成16年、です。つまり、昨年の原発事故以前に書かれた短歌が、これには収められています。

ほかに、原発関連の短歌をあげると、
たとえば、(行替えは、読みやすくするために、私が区切りました)

小火災など告げられず
原発の事故にも怠惰になりゆく町か

線量計持たずに管理区に入りしと言ふ友は
病名なきままに逝く

農などは継がずともよし
原発事故続くこの町去れと子に言ふ

中性子もコバルトすらも知らざらむ
原発を安全と言ふ作業員

原発に漁業権売りし漁夫の家の甍は
光りて塀高く建つ

「この海の魚ではない」との表示があり
原発の町のスーパー店に

使用済みの核燃料積まむ貨物船
潜むごと月明に接岸しをり

核のゴミ千年保証といふ記事を
疑ひつつ読む原発の町に住み

廃棄物処理場に貸さむといふ声もあり
農継ぐ者のなき峡のむら

原発に自治体などは眼にあらず
国との癒着あからさまにて

使ひ切れぬプルトニウムが溢れゆく
国をアジアは恐怖してゐる

自が身より他人愛せし人の死を
悲しめり原発ひた憎みつつ

子の学費のために原発の管理区域に
永く勤めて友は逝きにき

原発があるから何でもできるといふ
一つ言葉は町を支配す

ウランさへ信じられぬをプルサーマル
この老朽炉に使はむとする

自然界になかりしプルトニウム作りたる
人間は死もて償はされむ

これまで、原発関連の本として、小出裕章氏の『原発のウソ』(扶桑社新書)、さらに、広い視野で思考することを教えてくれた『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(山本義隆 著/みすず書房)は読みました。ほかに、『放射能を正しく怖がる100知識』のような本も。

そして、今、机の上にあるのは、『福島原発の真実』(佐藤栄佐久 著/平凡社新書)と『ヤクザと原発』(鈴木智彦 著/文藝春秋)です。

原発の問題に無自覚であった自分に、楔を打ち込んでいるような心持ちです。




1月18日(水) 喜寿

母の77歳の誕生日。喜寿。ちょっと贅沢なイタリアンのランチをご馳走する。

・・・(やはり、文体、変えます)・・・



1月19日(木) 市長選挙

今度の日曜日に、私が住む市では市長選挙が予定されている。一人は共産党推薦の候補。もう一人は自民党、公明党、社民党、さらに現市長がその後任として推薦している候補だ。きわめて保守的な市の、言わずと知れた、出来レースだ。

とても身近な選挙だけれど、私がこの二人の候補のことを知ることができるのは、“選挙公報”の紙切れ一枚しかない。

自民党推薦の候補にはwebはあったものの、ほとんど何もアップされていないに等しい。共産党の候補にいたってはwebすらない。ぎりぎりになって、なんとか候補者を擁立したという感じがあからさまにわかる。もっとも、候補者はwebに主張などを掲載してはいけないらしいのだけれど。

近頃は「最後のお願い」とか候補者の名前を連呼する“選挙カー”は全然流行らないらしい。というより、街の騒音とみなされるのか、立候補者のほうが敬遠しているようだ。なにせ、自分で選んで消防署の隣に引っ越してきたにもかかわらず、出動する際のサイレンがうるさいと文句を言う人がいるという世の中だ。とにかく、選挙カーなるものに遭遇したことがまったくない。こんな静かな選挙は初めてだ。

それで、市役所に電話してみた。どうやら選挙法により、宣伝することは厳しく制限されていることはわかった。各候補の顔を見たり、声を聴くことが、どこでできますか?街頭演説の予定や講演会のようなものや、あるいはディベートなどはないのですか?と、まるで小学生のような質問をしてみたが、教えてくれたのは各事務所の電話番号だけだった。

自民党推薦候補の事務所の女性は丁寧に応えてくれた。小さな公会堂での演説や、街頭演説などの予定も細かく教えてくれた。こうした予定すら、webなどにアップできないし、各家にポスティングもできないのが、この国の選挙らしい。

共産党推薦候補の事務所は全然ダメだった。とりあえず候補者を出したけれど、という感じだけが伝わってきた。「今、街中を選挙カーでまわっています」を繰り返す。「でも一度も見たことも聞いたこともないのですが」・・・無言。駅などで演説することはないのですか?と尋ねれば、調べるまでにだいぶ時間がかかった。

3本の電話をかけて、受話器を置いた後、なんだか無性に腹が立った。それから、なんだかとてもむなしくなってしまった。誰に投票する?なににせよ、こんな有様だから、投票率が上がるわけがないと思う。(事実、後日、公表された投票率は約30%だった。)

午後、太極拳の教室に行った後、白内障の手術を受けている母の病院へ急ぐ。これで、母の両眼には新しくレンズが入れられたことになる。それにしても、病院は大混雑だ。母は正午に病院に行ったが、終わったのは5時過ぎ。それでも前回より2時間くらいは早く帰れたのだから、いやはや。

白内障の手術は10〜15分くらいで終わり、費用は一割負担で13000円くらいかかる。この総合病院では、毎年3000件近い症例があるそうだから、白内障の手術だけでも3億円になる。



1月20日(金) 素直に

朝から雪。早起きして、片目に眼帯をしている母の病院に付き添う。

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾、村上春樹/新潮社)読了。面白かった。

読んだ中で一番笑ったのは、ストラヴィンスキーに言及しているところ(p161、p163)だ。自身で譜面を改訂して小節線を変えてしまって、指揮者は大慌て、というくだり。その理由がふるっている。ストラヴィンスキー自身が棒を振れなかったから、もっと簡単にした、というのだ。って、・・・そんなあ。

ほかにも、興味深い話は盛り沢山だった。

最初のほうの音源聴き比べのあたりは、かなりマニアックな内容だと思うけれど、音楽好きにはたまらない内容だった。CDや中古LPを探して、その音楽を事細かに耳をそばだてて聴いてみたいという気にさせるところが、罪だ。

また、対談ではないが、スイスのレマン湖畔の若い弦楽器奏者たちのためのセミナーのレポートは、実際に音楽に携わっている者にとっては、いわばコンサート前のリハーサルを見ているような実践的な内容で、この皮膚がさわぐ感じだった。

それにしても、村上春樹の文章、文体は、なんて人の心をやわらかくするのだろう。心を素直にさせる、と言ってもいいかもしれない。読者の心を、こんな風に開く作家は、そうはいないと思う。などと書くと、大反論が届きそうでもあるけれど。

対談の合間には“インターリュード”と題された村上春樹の文章が差し挟まれている。

「文章と音楽の関係」(p129)には、村上が音楽から書き方を学んだこと、文章にはリズムが大事、
さらに
「僕はジャズが好きだから、そうやってしっかりリズムを作っておいて、そこにコードを載っけて、そこからインプロヴィゼーションを始めるんです。自由に即興していくわけです。音楽を創るのと同じ要領で文章を書いています。」
と書いている。

リズムということで言えば、あらかじめ村上自身が「始めに」でことわりを入れているように、通常の対談では省かれるようなこと、たとえば、ここでお茶を飲んだとか、そうしたことが差し挟まれている。

小澤「マーラーを演奏したオーケストラとしては、僕らはわりに最初の方だったんです。(果物を食べる)うん、これはおいしいね。マンゴ?」
村上「パパイヤです」

この会話は、小澤がマンゴとパパイヤの区別がつかないマエストロだと言っているわけではなく、ここに流れている時間(リズム)を、敢えて、村上がふっとずらしていることを意味している。読者は思わず軽く笑い、少し呼吸をする感じだ。時間の流れを俯瞰して相対化しながら全体を構成していく作り方も、とてもうまいと思った。

そして最後のほうでは、夏目漱石の文章をとても音楽的だと書いていた。なんだ・・・つながっちゃったじゃん、という感覚。

(今夜、小澤さんは水戸でのコンサートをキャンセルしたと聞いた。体調、あまりよくないのかもしれない。)



1月21日(土) 練習

珍しく、ぶっつ続けで5時間余りピアノに向かっていたら、周辺はすっかり暮れていた。

夜は母と食事。夜8時5分前くらいに、両候補の選挙カーが「最後のお願い」を言っているのが聞こえた。はじめて、聴いた。



1月22日(日) ダブル

日曜日、ダブルでライヴ。午後は横浜・エアジンで、LUNAさんという若い女性歌手と大阪在住のベーシスト刀袮直和さんと。夜は初めて訪れる阿佐ヶ谷・ヴィオロンにて、池上秀夫(b)さんと高原朝彦(10弦g)さんと。共演者4人とも、はじめまして、しかも即興演奏という、濃い日曜日。

LUNAさんは英語の発音がネイティヴでリズミカル。言葉にも音程にも自信があるようだ。ご自身でも曲を作られるということで、オリジナル曲をやろうと提案する。

刀祢さんもご自身のユニットを持って、活動されているとのこと。

いろいろな若い人たちが出て来ているんですね。

今や、ジャズクラブやジャズのライヴハウスで、日本語の歌がうたわれることは特に珍しいことではなくなった。格闘していた日々が懐かしく思い起こされる。

池上さんはご自身の声がそのままコントラバスの音になっていると感じた。“つぶやき”ではかなりポリティカルな発言をされているけれど、実際に会ってお話ししてみると、物腰のやわらかい、実直な雰囲気のある方だった。

高原さんとは、実は25年近く前にセッションか何かで共演したことがあったと思う。新宿にJBLサンセットというお店があって、そこで出会ったのではなかったかと思う。当時の印象はECMサウンド。ジスモンチの音楽のサウンドを目指しておられたように思う。そういえば、当時、彼は日本人で初めてECMレーベルから音楽が発表される云々と言われていたことを思い出す。

はじめましての即興演奏ということもあって、前半はそれぞれ様子をうかがっている感じだっただろうか。というより、池上さんと高原さんはよくデュオで活動されているとのことだったから、ゲストとして招かれた私の出方を、2人とも待っているという時間の運び方になったと思う。

後半は、だいぶアグレッシヴになったかもしれない。高原さんは調性感のある曲で始まったり、私はC.ヘイデンの曲のメロディーを奏でて、池上さんを誘ってみたり。前半よりは関係性が交錯した内容になったように思う。

それにしても、阿佐ヶ谷。

駅の北口からヴィオロンまでたどり着く道のり、“スターロード”と名付けられた飲み屋街は、昭和そのままだった。おいなりさん、1個60円。などなど、まったくもって驚いた。

そしてヴィオロンもまた果てしなく昭和。飲み物は限られたものしか出ない。お客様にサービスするような感じがほとんどない。お店の真ん中は下がっていて、それは裁判所のようでもある。入口から真正面に見えるのはたいへん立派な蓄音機だった。

オーディオにこだわっている店主は、一関ベイシーのマスターの名前を挙げるまでもなく、なぜかおおむね同じような雰囲気を醸し出しているけれど、このお店のご主人は蓄音機とSPレコードにこだわっておられる。毎月1回、SPレコード鑑賞会をやっているそうだ。今月はモーツアルト、来月はベートーヴェンを特集するという。

ちなみに、ピアノはアップライト。メンテナンスや調律をすれば、多分悪くない。音楽を愛するならば、オーディオだけではなく、楽器にも愛情を、と私は思う。もっとも、もともとライヴをやるようなつもりはなかったのだろうと思うけれど。



1月23日(月) 多彩

今宵は「門仲天井ホールの今後を考える会」主催のコンサート。基本はこのホールの持ち主である組合員向けに企画されたものだが、一般の方たちにもリーズナブルな料金で聴いていただける、というものだ。

プログラムは実に多彩。和太鼓の演奏、ジャグリング、講談、落語、ダンスのワークショップ、ヴァイオリン二重奏、現代音楽(ジョン・ケージのピアノ作品)、無声映画(弁士、ピアノ演奏付き/両者とも即興)、ジャズ&即興演奏、ハーモニカ演奏。

こうして挙げてみるだけでも、この門仲天井ホールがいかに多彩で豊かな空間を持っている場であるかがわかる。はっきり書くが、わかっていないのは、あるいはわかろうとしていないのは、組合員だけだ。

終演後、外は大雪。打ち上げもせず、みんな早々に帰宅する。




1月24日(火) ヤクザと原発

『ヤクザと原発』(鈴木智彦 著/文藝春秋)を読み進めている。

不謹慎な言い方になるけれど、とても興味深く、面白い。東と西のヤクザ(暴力団)は組織の在り方や様子がだいぶ異なるらしいが、いわゆる東北において、“地”と“血”の縁(つながり)に、いかにヤクザ屋さんたちが関与しているか、そしてそれがきわめて日本的であるかがよくわかった。

壊れた原発の作業員を集めるのに、全国の暴力団がほぼかかわっているという事実。政治と暴力団、企業と暴力団、警察と暴力団。「暗黙の了解」があたりまえの世界。そうした裏の世界を取材し続けている著者が、F1(福島第一原発)に潜入してまで書いたドキュメンタリー本。



1月26日(木) 世界の終わりに

今月と来月、日本映画専門チャンネルでは「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という特集が組まれており、主として、原発関連の映画がとりあげられている。
http://www.nihon-eiga.com/iwaishunji/

今晩は、鎌仲ひとみ監督、ドキュメンタリー映画作品『ヒバクシャ 被曝者 世界の終わりに』(2004年)。

やっと観ることができた。その後味は決してさわやかではなく、とても苦い。世界がほんとに深刻な状態にあること、自分たちがどのような現実のもとにあるかが、突き刺さってくるように感じられた。

アメリカ軍に劣化ウラン弾をばらまかれたイラク。マンハッタン計画により、長崎に投下された原爆(プルトニウム爆弾)が製造された、アメリカ・ワシントン州東南部に位置するハンフォード。そして、日本の広島・長崎。

これらの三か所で起こっている現実を、カメラは追う。その視点は、そこに生活する人々にある。

イラクの子供たちの現状は、鎌田實さん(諏訪中央病院名誉医院長/チェルノブイリやイラクで、白血病や癌を患っている人たちへの医療援助をやり続けている医師)と仕事をしてきた関係で、現地の様子を録った写真を何度も見ているし、その著書も読んでいるので、それなりには知っているつもりだった。

が、これまで鎌田さんと仕事をしてきたにもかかわらず、いかに自分の意識がなまぬるいものであったかを、私はあらためて涙とともに猛反省した。

アメリカ・ハンフォードの現実は痛々しかった。その地を訪れた鎌仲さんや肥田医師を、トムが案内するのだが、車の中から、あの家では誰それがどういう病気で死んだか、あるいは治療中か、といったことを、次から次へと話すシーンは、画面を見ながら、思わず「もうやめて」と言ってしまったくらいだ。

そして、トムの弟は、その周辺でポテトを作っている。その大半は日本へ輸出されているそうだ。マクドナルドやケンタッキーなど?このことは、特にこの映画が世の中に出てから有名になっているらしいが、・・・もう食べる気がなくなった、ポテト。

最後は日本。肥田舜太郎さん。広島への原爆投下で、ご自身も被爆している方だが、その直後から被曝者救済、治療にあたっている医師(2009年引退)で、今もなお核兵器の廃絶を訴え続けている方だ。ご高齢とは思えないお元気さは、ああ、この人は免疫力がすぐれているんだなと思わせるものがあった。それに笑顔がすてきだった。

また、この肥田医師と鎌仲さんが厚生省に行き、癌の死亡者などを調べた後のシーンは印象的だった。方眼紙に三角定規で折れ線グラフを書いている肥田さんの姿が映し出されていた。40年ぶりくらいに見たこの光景に、妙に感動してしまった。

それは、コンピュータですべてデータ化できる世の中にあって、なんてアナログな、ということではなく、人は自分なりのやり方で、自分を生き切ればいいのだ、ということが伝わってきたことに、胸がふるえたのだ。そして、この人は信じられると思った。

それによれば、1996年にいきなり乳癌で死亡した女性が増えている。また乳幼児の死亡率が高いのも、ちょうど中国の核実験の時期と同期しているという。

この映画は、たとえば反核といったことを声高に叫んでいるわけではない。ただ、その“現実”をしっかりとした意思で映し出し、私たちに伝えようとしている。

先の永山則夫を追ったドキュメンタリー番組(NHK)のディレクターも女性だったが、地道な作業や取材をこつこつと重ね、骨のある仕事を残している女性がいることに、私は少なからず励まされる思いになる。

ともあれ、かくのごとく、もはやこの地球は放射能汚染まみれだ。世界中に核開発施設や原発はあり、空気も大地も海も、毎日毎日汚され続けている。自然界には存在しない、恐ろしいものを作ってしまった人間は、やがて天罰を受ける、としか思えなくなってくる。

そして、では、さて、私はどう生きていく?



1月27日(金) 叩く指

大泉学園・inFで、立岩潤三(per/ダラブッカ、レクなど)さんと、はじめましてのライヴ。

実は今から数年前に、立岩さんというすばらしいパーカッショニストがいると、友人から推薦されていた。そして去年、ひょんなことで、バロック・古楽関係に詳しい友人からの電話で、立岩さんと直接話す機会を得て、それがきっかけで、今日という日が実現された。(この出会いを作ってくれた友人たちに、この場を借りてあらためて感謝いたします。)

動いている、指。叩いている、指。あれだけ指を動かしていたら、絶対にボケないだろう。というような冗談はさておき、彼が織りなす音、音色、サウンド、そしてリズムは、様々な色彩をともなった美しいタペストリー、魔法の絨毯のようでさえあった。

彼が演奏している楽器たちは、決して音量の大きい楽器ではない。そう考えると、いわゆるドラムセットというものが、いかに近代的な寄せ集め総合構築物であるかがわかる。彼が演奏する楽器たちは、その対極をいくような音楽世界を作っているように思えた。

それは、彼の音色への意識や意思によるものだと思う。たとえば、あの短い棒のベルが放つ、じりじりとした倍音。実は、あの音が聞こえた時、私の耳はまたおかしくなってしまった?と焦った。(そうでなくてよかった。)

総じて、ドラマーよりパーカッショニストのほうが、音色に対する意識が高い、と私は思っているのだけれど、パーカッションといっても、これまた世界は広い。

自分の体内リズムの感覚から考えると、多分、ブラジルなどの南米系よりも、シルクロード系のほうが、自分に近しいと思う。

1980年代後半、大阪から出てきたばかりの吉見征樹(タブラ奏者)さんとよく演奏した私だが、1990年初めに、ドイツ・ニュールンベルクのフェスティバルで、ヤヒロトモヒロ(per)さんとデュオで演奏した時は、「水と油」と翌日の新聞に書かれたことも思い出す。



1月28日(土) また揺れた

朝、けっこう大きな地震。一瞬、とうとう来た、とさえ思った。すぐにラジオをつける。原発はだいじょうぶ?と次に思う。ともあれ、もう一刻も早く、ベッドの頭のほうにある桐箪笥を移動しよう。

今週初め(23日)、マグニチュード7級の首都直下地震が、今後4年以内に約70%の確率で発生するという試算が、東大の地震研究所のチームによって発表されたばかりだった。

3.11以降の精神状態は、いつもどこか安穏としていない。元旦の地震はもとより、ここのところ頻発している地震は、明日、何が起きてもおかしくない、と思わせる。それは即興演奏にも似ているし、実際命をかけているわけだけれど、即興演奏をしたからといって、死ぬわけではない。問題なのは、死ぬかもしれない、ということだ。つまり、どう、生きるか、だ。地面が揺れるたびに、なんだかちょっと切羽詰まった心持ちにさせられる。




1月30日(月) マニアックな映画2本

1日に、2本、映画を観た。はしご酒ならぬ、はしご映画。

最初に観たのは『ピアノマニア』。シネマート新宿にて。一人の調律師・シュテファンに焦点をあてたドキュメンタリー映画だ。

おそろしくマニアックな内容だけれど、たいへん興味深く、とても面白かった。94分間、ずっと緊張して、というより、目と耳を凝らして、時間を過ごしたように思う。なにせ0.7ミリの世界の話だったりする。

映画館のスピーカーがもっと良ければいいのに、と思ったが、望むべくもなく。けれど、それなりに音は聴き取ることができて、たとえば、一音のうなり、音が減衰していく感じ、その響きを、ラン・ランが指摘して、それが調律師の作業によって変わったところなどは、よくわかった。

ことほどさように、調律師も、演奏者であるピアニストも、さらに、エマールの「フーガの技法」のレコーディングでは、そのエンジニアも、細部の細部に至るまで、耳や意識や心や身体を働かせている。

また、調律師の開発した反響板は、これまで見たこともないもので、その光景はピアノに何枚も羽が付いたようだった。調律師という職業に就く人は、こうした“工夫”をすることがほんとうに好きなのだと、しみじみ思う。

この映画の最後は、クラシック音楽をネタにショーをしているデュオのパフォーマンスで終わる。この調律師の仕事の幅の広さを出したかったのだろうと思う。が、ここまで作ったなら、もう少し詩的な終わり方でもよかったように感じる。

それにしても、エマールが各古楽器(チェンバロ、クラヴィコード、オルガン)の響きを、現代のコンサート・グランドピアノに求める、ということ自体が、そもそも、私にはちょっとよくわからない。演奏者の気持ちや、その指先の感触や、耳が感じる響きの違いは、痛いほど想像できるけれど。

その後、渋谷へ移動して、アップリンクで上映中の『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』(ドキュメンタリー)を観る。

グールド自体の映像は、ほとんどこれまで観たものばかりなので、特に新鮮味はないのだけれど、彼と親交が深かった女性たちが出演して、証言したりしているところが新味ということのようだ。

アップリンクでは、この後、鎌仲ひとみ監督も来て、『ミツバチの羽音と地球の回転』が上映されるとのことだったので、観たいとは思ったものの、さすがに疲れた。集中力が保てそうにない。1日に3本は無理と判断して、2本の映画のパンフレットを小脇に抱えて、帰宅の途に着く。



1月31日(火) いきなり動けなくなる

朝から家の掃除をする。ぞうきんがけなど丁寧にやると、どうしても半日を費やすことになるので、たいていは前日から覚悟を決めてとりかかる。

身体を動かしているので、暖房を入れなくて済むから、光熱費の節約にもなるんだわと思いながら、けっこう調子よく清掃に励んでいた。藤原養蜂場のドリンク剤なんか飲んじゃったりして。そして、腰にカイロをしたほうがいいかなあとは、漠然と思っていたものの、そうせずにいたら・・・。

したらば、夕刻、机の下にもぐりこんで、背中を伸ばしてぞうきんがけをしていた時、一瞬、うっ、と感じたら、以降、いきなり動けなくなった。あ、また、ぎっくり腰をやってしまったかしら、と思ったのだけれど、どうもちょっと様子が違う。左の腰から下、左のお尻や左足がつっぱって痛くて、ダメだ、まったく動かない。

これは坐骨神経痛かもしれないと思う。若い頃、雨の日、ドラムスの搬出を手伝っていて、階段で足をすべらして尻もちをついた時、我が脳内に美しい星が見えた途端、全然動けなくなったことがある。その際、尾てい骨の先っぽの骨が曲がっているので、将来、坐骨神経痛になる可能性があると言われていたからだ。

腰を曲げられない。足を曲げられない。座ったり立ったりがものすごくたいへんだ。着替えにおそろしく時間がかかる。通常の10倍は時間がかかる。右手で少し遠くの物を取ろうとすると、左足が痛い。ほか、ことごとく、身体は連動していることに気づかされる。

まいった・・・。






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