3月
3月1日(木) ホルスト

先月24日、ドイツのエンヤレコードのホルスト・ウエーバーさんが天国へ逝かれた。そのことを最初に知ったのはFaceBookだったが、その後、ベルリンに在住している高瀬アキ(p)さんからもメールが届いた。

1992年、ニュールンベルク(ドイツ)のジャズフェスティバルに、早坂紗知(as)さんのバンドで招聘された際、それとは別に、私とヤヒロトモヒロ(per)さんとのデュオを組んでくれたのが、ホルストだった。確か、新宿ピットインでの二人の演奏を、彼が聴いてくれたのがきっかけだったと思う。

このニュールンベルクのジャズフェスは、一つの建物の中にいくつかホールがあって、同時多発的にコンサートが行われ、お客様は好きな音楽を自由に選んで聴くことができる。私たちは小さいほうのホールで演奏。大きいホールでは、マクラフリン率いるバンドの演奏だから、当然、お客様たちはそちらへ流れて行く。

「向こうはマクラフリンだから、仕方ないよ。でも、しっかり演奏してね。」と、ホルストは私の肩を叩いてくれた。そのぬくもりをふんわりと思い出す。

ちなみに、翌日の新聞に掲載されたコンサート評は、「ヤヒロとクロダは、水と油」。てへへ。

今から思えば、最後に会ったことになってしまったのは、2008年の9月。“サルガヴォ”のピアニストのトラで演奏した、パリ文化会館で、だと思う。リーマン・ショックが起きた時で、出国時と帰国時でユーロのレートがものすごく違っていたことも、あわせて思い出される。

ホルストは、山下洋輔トリオをヨーロッパに紹介したことでも有名だが、坂田明さん、高瀬アキさんなど、実に多くの日本のミュージシャンと親交が深かった。彼が最後にてがけたアルバムは、どうやら天田透(fl)さんのCD作品になるらしい。

心からご冥福をお祈りします。

ちなみに、このニュールンベルク・ジャズフェスティバルは、とても印象に残っている。

なぜなら、ピアノの鍵盤の一番下が黒く増えているベーゼンドルファーのフルコン“インペリアル”を、生まれて初めて弾いたからだ。完璧に楽器に負けた。大きなフェスティバルだから、次から次へとバンドは変わり、リハーサルを充分に行える時間など無論ない。つまり、ほとんど楽器に触れずに、本番を迎えるわけで、私はこのピアノをまったく弾きこなせなかったのだ。

そして、今となっては、アート・アンサンブル・オヴ・シカゴのレスター・ボウイ(tp)といっしょに撮った写真も貴重な一枚。



3月2日(金) 沈黙

渋谷・公園通りクラシックスにて、黒田京子トリオでライヴ。これまでと同様、私が一番上手、センターにチェロ、下手にヴァイオリンという位置どりで、生音での演奏。

後半の演奏で、長い“沈黙”がおとずれた。この沈黙の時間は、この三人で奏でられる音楽の豊饒さをあらわしていると感じた。

ので、方向性も含めて、修正すべき点はいくつかあると思っているが、やはり録音を残しておきたいと思った。



3月4日(日) ケージの響き

東京オペラシティへ、井上郷子(pf)さんのピアノリサイタル♯21“ジョン・ケージ第2期作品集”を聴きに行く。

プログラムは、「ある風景のなか」(1948年)、「四季 〜一幕バレエのための<ピアノ版>」(1947年)、「ソナタとインターリュード」(1946年〜1948年)。

すばらしい演奏だった。

そして、ケージのピアノ作品も、また、すばらしい。

前半の1曲目はとても美しい。すばらしい音色。後ろのほうしか席が空いていなかったので、足のペダル操作を見ることができなかったのだけれど、多分、相当細かいのではないかと想像する。

2曲目は少しリズムというか躍動感がある雰囲気。

後半はピアノを変えて、プリペアドピアノによる約1時間強の作品が演奏される。これがすんばらしかった。

演奏者には極度の集中力が必要とされる作品だと感じた。音色や音質、指のタッチ、ペダル操作などをコントロールする技量や力量がなければ、決して演奏できない。というより、弾かれるより前に、音のイメージや響きが、演奏者自身にしっかりイメージできていないと、これは作品にならないだろうと思った。

世界を紡ぐ「耳」が、演奏者に要求されている。そう思った。

実際、井上さんは曲を弾き終わった後、しばらく静寂を聴いている。音は空気を伝わって他者に届く、というあたりまえのことを深く感じる時間が生きていた。そこまで呼吸して、彼女は演奏している、と感じた。

なので、この作品が終わった後に、誰かが物を落とした音が会場に響き渡ったことは、少し残念に思えた。にもかかわらず、そんなノイズも含めて、なんだかケージの作品に思えるところが、ケージの音楽の懐の広さのような気もしてきたから不思議だ。

後に聞けば、このプリペアドを施すのに、約3時間、さらに納得がいく音色に決まるまでにはさらに2時間、合計5時間くらいかかったらしい。ふえ〜。

これらのケージの作品を聴いて、ピアノという楽器の音色や質感、そして響きというものは、なんて豊潤なのだろうとあらためて思った。やはり“響き”だ。

終演後、友人たちと一杯飲んで帰る。脱原発、水俣病など、社会問題への意識が高い彼女とは、やはり大震災のことが話題になる。

彼女によれば、たとえば放射能の問題。これまで子供を持つお母さんたちの心配や主張は取り上げられることも多かったが、今、問題になっているのは、20歳代の若い女性たちだという。親からは「福島出身とは決して言うな」と言われ、たとえば関西に住む男性は「東北の女性を嫁にもらうな」と子供に言っているという。ここにもまたかなしい“差別”が生まれている。

あと一週間で、あの日から一年。テレビなどでは大震災の特別番組が組まれて放映され始めているが、マスコミ全体は「前に向いてがんばろう」という雰囲気に統一されているらしい。ひとつも終息していないフクイチも含め、現実をしっかり把握する目だけは持ち続けたいと思う。

そして、さらなる大地震の恐怖も、そこにある。



3月5日(月) ダンプチェイサー

夜6時半頃に、拙宅のピアノの調律をお願いしている調律師さんが来訪。トライしてみたい、ということで、“ダンプチェイサー”を取りつけてみることにした。

実は、拙宅のピアノ室は一年中かなり湿度が高く、その分、楽器に負担がかかっている。冬の超乾燥時も、室内の湿度が60%以上あるのだから、楽器にはすこぶるよろしくない。

そのため、1月に調律していただいた後に、鍵盤の上がりが悪くなった箇所があった。その後一度手を加えてくださったが、再び動きが悪くなったので、今回の経緯と相成った。つまり、ダンプチェイサーというのは、ピアノ専用のサーモスタット付き除湿器だ。

この器械を取りつけた後、「ちょっとやりたい作業があるから」ということで、調律師さんは食事もとらず、黙々と仕事をされている。別室で確定申告の準備などをしている私だったが、さすがにお腹も空いてきた。が、我慢し続ける。気がつけば、夜も更けて10時半頃になっている。

ををを!そのタッチと音色は、もう別人のよう。一瞬、アフタータッチが浅くなったように感じたのは、鍵盤の反応がとても良くなったためであることを知る。すごい。そして音色はすこぶるブライト。モーツアルトやハイドンなどの古典派の作品を演奏するにはぴったりの感じだ。ストレスがなく、指が楽しいと言っている。

聞けば、タッチを改善する作業項目は10個くらいあるそうで、そのうちの一つを試してみたけれどあまりうまくいかず、別の作業を施したらうまくいった、とのこと。素人には全然わからない領域が広がっているわけだけれど、ほんとうに細かい作業がされていることだけはわかる。

実は、私の指は、中高時代にやっていたクラブ活動(ハンドボール部)により、突き指や脱臼の嵐に遭っているため、動きの悪い指がある。そんな私の指だけれど、ピアノの状態が良いと、細かいタッチやニュアンス、音色、音質、といったことに、これまで以上に、意識が広がり深くなるように実感する。ここは、ほんのちょっとだけ指を立てると、このフレーズが素直に弾けるな、とかとか。

こうして考えてみると、調律師とピアニストは、ピアノという楽器を真ん中にして、対話しているようなものだとつくづく思う。そして、すべては奏でられる音に集約されている。




3月6日(火) まもなく

まもなく、去年の大震災から一年ということで、NHKをはじめとするテレビ局は、震災関連の番組を特別に組んだりしている。

そうした番組を観なくても、どうも少し精神状態が不安定な感じ。軽い鬱状態だろうか?単に歳を取っただけかもしれないけれど、なにかというと、ちょっとしたことで、すぐ涙ぐんでいる自分がいる。



3月8日(木) シンプル・イズ・ベスト

長年、池坊のお花の修業をしている、小学校時代の友人の花展に足を運ぶ。大展覧会という感じで、たくさんの立花を見る。会場をまわりながら、花や活け方は、やはりシンプルなものに限る、と思う。

夕刻、行きつけの美容院で、髪の毛を少し染め変える。ますますトラのようになった。

この美容院には温かい音がするJBLの大きなスピーカーがあり、時々LPもかかる。それで、しばし店主と「音質」の話になる。“打ちこみ”の音は、耳が許さない、拒否、耐えられないということで、意見が一致する。



3月9日(金) すんばらしい発想

夕方、シューベルトの作品「アルペジオーネ」のリハーサルをしてから、夜は大泉学園・inFで、即興演奏ユニット“太黒山”のライヴ。

山口とも(per)さんの手にかかると、たわしも、いちごのパックにかかっている透明のビニールも、みんな音の出る楽器になる。家の前に落ちていたという四角い木材も、“たい焼き奏法”(今、私が勝手に名付けている/要するに、ひっくり返す)で、その木をバチで叩くと、なんと音程が変わるのだ。その発想がまことにすんばらしい。

相変わらず20分くらいはゆっくりお越しになるヴァイオリニストも、私も、そんなともさんをしばし眺めやる感じ。



3月10日(土) お酒弱し

午後、銀座にある山形県にあるアルケッチャーノ(イタリアン・レストラン)の系列のお店で、友人たちとランチ。お料理も会話もおいしかった。

その後、銀座の画廊に寄ってから、夕方には喫茶店、夜は居酒屋という流れに。

ところが、久しぶりに友人に会えたのがうれしかったのか、私にしては超珍しく、昼間から飲んだ赤ワイン。空きっ腹にいきなり飲んだのがいけなかったのか、喫茶店に入った頃から、頭がガンガンしてきて、軽い吐き気がある。何も飲めなくなり、食べられなくなる。胃が収縮している気配を感じ、冷汗が出る。何度も店の外に出て、深い呼吸を試みる。

そんな状態に陥ってしまい、まことに残念なことに、ろくに話もせずに、リタイア。駅のホームで30分、なんとか電車に乗ったものの、途中下車して、とうとう嘔吐。ああ、昼間食べたおいしいお料理もすべて流れてしまった・・・。息たえだえでタクシーに乗る。久々の、軽い急性アルコール中毒だったかもしれない。

ということで、普通なら30分くらいで家に帰れるところを、2時間半かけて帰宅し、そのままダウン。ようやく回復したのは7時間後だった。お酒、少しは飲めるけれど、やはり根本的にアルコール分解酵素がない体質なのだろう。浮かれて飲むのはやめよう。とは言っても、きっとまたたまに繰り返すんだろうなあ。



3月11日(日) NO NUKES

この日。

あの日。

あれから一年。

今日は、東北復興支援を続けている地元の人たちと、市内でボランティアをしようと思っていたのだが、急遽ピンチヒッターで、沢田穣治(b)さんが主宰する “NO NUKES JAZZ ORCHESTRA”に参加し、新宿・ピットインで演奏。

最初に電話をいただいた時に、真っ先に尋ねたことは、無論、このオーケストラの名前の由来とコンサートの趣旨。リーダーの考え方など。(あ、もちろん、政治集会ではありましぇん。)さらに、なぜ私なのか?などなど。そして、参加することに決めた。

ほんの数日前に、譜面と音源は送られてきたものの、リハーサルは本日午後、本番直前という状態。譜面に書かれた音符を追わなければならないので、リハーサルで既にちょいとくたびれる。

2時46分。

リハーサルの真っ最中。リーダーは何か語っていたので、ひとりで、黙祷。

今夜はもう一人ピアニスト・南博さんがいて、彼は主としてジャズの曲を担当し、私はストリングスが入った、無調の曲あるいはクラシック音楽で言われるところの現代音楽っぽい曲を演奏する感じ。

久しぶりに、芳垣安洋(ds)さんや岡部洋一(Per)さん、さらにサキソフォビアのみんなと会えて、なんだかとてもうれしい。

ストリングスは、ヴァイオリン2人、ヴィオラ、チェロ、という編成。桐朋関係の女性たちらしい。

で、驚いたことに、チェロを弾いている女性は、私が中高時代に所属していたハンドボール部の後輩であったことが判明。これはレアだ!聞けば、彼女がハンドボール部にいたのは中学時代だけで、高校に入った時にやめてしまったという。そして桐朋の音大へと進学したとのこと。

当然、彼女も私も、指はぼろぼろ。突き指、脱臼は当たり前。傷だらけのミュージシャンだが、そんなこんなで、しばし盛り上がってしまった。

本番のライヴでは、譜面に、というか曲に慣れていない私は、大切な箇所をトチる。フライイングしたり、遅れたり。おんどりゃ、頭、悪いんとちゃうか!と、自己批判しつつ、ひたすらリーダーにあやまる私。今日という日に、こういうライヴをやるリーダーの熱い思いが痛いほど感じられるだけに。・・・とほほ。



3月13日(火) ちょいと

午後、辻康介(vo)さん、立岩潤三(per)さんと、リハーサル。

この三人で、いったい、何をやるの?

辻さんと立岩さんは、以前より辻さんのリーダー・ユニット「ビスメロ」や、他の「ジョングルール」などでも、頻繁に共演されている。私は辻さんとも立岩さんとも、まだ1回しか共演したことがない。なれど、立岩さんとデュオで演奏した時、今度は辻さんを誘って三人でやってみない?と言ったのは、私らしく・・・。それは、ほとんど直感。

実際、何かが微妙にハマッている感覚を抱いている。そして今回のリハーサルを経て、多分、その感覚は間違っていなかったように思った。

「Inventio インヴェンツィオ」。これがこのユニットに名付けられた名前。JSバッハの「インヴェンション」の「インヴェン」だ。

本来は「発見・発想・着想」という意味だそうだ。「何もないところから、何か気づく、話の源に気づく」というような。

たとえば、辻さんや立岩さんの言葉を借りれば、「コードとかモードとか、既にある音楽語法を前提としないで、歌詞などから音楽創りのアイディアを紡ぐ」とか、「違ったジャンルの3人が、なんとなく追っかけっこしたりしなかったり」といったイメージも、ここには含まれている。

ある方向性が出てくるのは、もう少し先のことになると思うが、選曲(日本語の歌や詩が中心、ユーモアもたっぷり)も含めて、なんだか面白くなるような気がしている。少なくとも、あまり他の人はやっていないようなものになるのではないかしら。もちろん、ビスメロとも違って。

ということで、みなさん、来てね!って、来たくなったでしょ?

ライヴは、今月27日(火)午後7時半開演、渋谷・公園通りクラシックスにて。詳細はスケジュールのページを参考にしてくださいますよう。ぜひ!




3月14日(水) 時間とにらめっこ

明日は確定申告の締め切り日にもかかわらず、去年一年間を金銭的側面から振り返るような気持ちにまったくならない。というより、落ち着いてとりかかれない。ということで、今年は決められた日にちまでに出すことはあきらめた。

かたや、東京を離れるため、約一週間は練習できないモーツアルトやシューベルトに向き合う時間は、一日をあっという間に終わらせる。もう金輪際、少なくとも三月にクラシック曲の発表をするようなことは絶対にやるもんか、とつぶやく私。



3月16日(金) 吉本隆明の訃報

おおたか静流(vo)さんのコンサートで、代々木上原・けやきホール(古賀政男音楽博物館の一階)で演奏。共演する篠崎正嗣(vn、二胡)さん、翁長みどり(per)さんとは、初めまして。

今さら言うまでもなく、篠崎さんはクラシック音楽界における“篠崎ファミリー”のお一人。音楽一家のお育ちだそうだが、ご自身は小さい頃からヴァイオリンの練習をするのが嫌で嫌で仕方がなかったそうだ。そんなお気持ちもあったからか、クラシック音楽のほうには進まず、現在は主としていわゆるスタジオ・ミュージシャンの重鎮でおられる。ちなみに、先の大震災直後、お孫さんをイタリアへ避難させたそうだ。イタリアにお家があるか、お知り合いがおられるか、なのだろう。

翁長さんは沖縄出身の方で、途中でとても変わった民族舞踊の帽子(というより、蓑のようなかぶりもの)もかぶって演奏された。とてもフランクで愉快な方だった。

いろんな人と出会えることは、これまた楽し。



帰宅後、吉本隆明の訃報を知る。

何か、一つの時代が終わったような心持ちになる。

本棚に並べられた、その単行本の背表紙をしげしげと眺める。『共同幻想論』はもとより、『悲劇の解読』、『世界認識の方法』、『心的現象論序説』、『日本語のゆくえ』、『「反核」異論』など。

吉本の名前を初めて知ったのは、詩集『荒地』だったと思う。高校、大学と近代文学や現代詩に傾倒していた私は、大学時代に吉本の詩集を持って、朗読会(詩人、本人が自分の詩を読み、講演するセミナーのようなもの)に行き、サインをしてもらったことがある。その時の第一印象は「やっぱり怖そうな人・・・」だった。

また、大学時代、文学部に在籍していた私が、もっとも影響を受けた著作の一つに、『言語にとって美とはなにか?』がある。その内容を、今もすべてを憶えているかと問われれば、首を横に振らなければならないが、当時、何かとても明解な理論に出会えたという感覚があったことはよく憶えている。

この本で、吉本は、それまでの言語学が扱っていなかった領域、すなわち「言葉の発生」について書いていたと思う。人は何かを感じて、何か声を、言葉を発する、語ろうとする、伝えようとする、その瞬間や場について言及し、さらに、言葉を「指示表出」と「自己表出」というとらえ方で思考する、という理論展開だったと思う。

この、人はなぜ声を発するのか、という根本的な問いかけ、あるいはそうした疑問を持つ姿勢(生き方)は、おそらく、今もなお、私の心の奥底にずしりと沈んでいるように思う。

それは、人はなぜ歌をうたうのか、なぜ音を奏でるのか、この問いかけを失ってはいけない、そこに耳を傾けなければいけないと、今、なぜかこういう仕事をしている私が強く思っていることにつながっているように思う。

そこには、とりもなおさず、「他者に伝える」ということ、「表現」というものは、どういうことなのか?という問いかけも内包されている。

最近では、吉本は夏目漱石に関する本も書いていて、私は購入して途中まで読んで放り出したままだった。続きをちゃんと読もう。

天国に、感謝をこめつつ、合掌。



3月17日(土) プリクラ

京都市内の北のほうにある、老舗の喫茶店“陽”の40周年記念ライヴということで、坂田明トリオで演奏。

ピアノはヨーロッパではよく見かける、燭台の付いたアップライトピアノ。お店の方の自慢で大切にされているピアノと聞いている。

客席は満席。中学・高校でお世話になった先生も来てくださって、終演後はいっしょに打ち上げへ。

深夜も3時近かっただろうか、酔っ払った勢いで、坂田明(as)さん、水谷浩章(b)さんと3人でプリクラを撮る。最近のプリクラは進化していて、3人ともあたふたする。ポーズをとる合図がよくわからない。さらに、いったいどこから写真が出てくるのか?と探し回る。あらまあ、今どきはそのままデータを携帯電話に送ることができるのね、などなど。アハハ状態。



3月18日(日) 仙台へ

お彼岸の中日に、宮城県石巻で演奏することにしたので、京都から新幹線を乗り継ぎ、そのまま仙台に入る。名目的には、石巻商工会議所の招聘によるコンサート。

夜、震災の復興支援に深くかかわっている女性と会食。聞けば、翌日は宮城県知事たちと、東京の官邸に行って話しをすることになっているという。とにかく、超多忙、超パワフルな女性から、現在の宮城県の復興状況について、たくさんの話しを聴く。

そこで生活している人たちの暮らしが置き去りにされたまま、オカミによる復興計画が進んでいること、格差が拡大しつつあることなどなど、様々な現状や問題点を伺う。



3月19日(月) 塩竈神社

友人と待ち合わせて、塩竈神社へお参りに行く。明日の演奏前に、亡くなった方たちの冥福を祈ってから、という思いが、自分の内にどうしても強くあって、とにかく塩竈へ。そういえば、前回来た時は、大雪の中を歩いて参拝に行ったことを思い出す。

あの長い階段を登り、正面から参拝。その後、志波彦神社にもお参り。その途中で、友人から紹介されていた権禰宜(ごんねぎ)さんを、思い切って尋ねてみることにした。運良くいらっしゃって、境内などを案内してくださった。その温かいお人柄に接することもできて、うれしく思う。

この神社にも、いわゆるパワースポットがあり、そこを案内していただいた時は、・・・もうまるで空気が違っていた。それに、横になっている木は、私には龍のように見えた。どうやらしばらくは“龍”がマイブームらしい。

その後、塩竈でコンサートをした時にお世話になった方と会ってお茶をする。以前コンサートで演奏したことがある“マリンゲート塩竈”のレストランへも案内していただく。が、お店は既に閉まっていて、周辺はなんだかとてもさみしい。

“マリンゲート”はその名の通り、海の近くにあり、そのロビーには津波が押し寄せた時の写真が飾られていて、館長さんがその時の様子を話してくださった。この辺りも大きな津波の被害に遭った所なのだ。塩竈港は大きな被害に遭わなかったこともあって、塩竈の津波のことはあまり報道されることはないけれど、津波の水の跡も残る建物の中にいると、なんだか多くの人の悲鳴が聞こえてくるような気がした。

夜は友人と食事をし、バブルだという繁華街、仙台・国分町のバーへ行く。国分町は、東京で言えば歌舞伎町のような所だ。去年6月下旬に訪れた時も、既にそういう状態ではあったけれど、実際、バブルな雰囲気満々だった。深夜にもかかわらず、多くの人であふれていた。



3月20日(火) 石巻

震災の影響で、仙石線はまだ全線開通していないので、仙台駅前から出ている高速バスで、石巻へ行くことにする。

高速を降りてから、バスは大型スーパーマーケットにも停車する。祝日ということもあってか、大駐車場は車で満杯だ。また、明日から始まる高校野球に21世紀枠で出場が決まった石巻工業高校の横も、バスは走っていく。(後に聞いたが、甲子園出場にあたって、1000万円くらい募金が集まったらしい。)

駅に降り立ち、東京から来ている友人たちと合流。友人たちに会えて、なんとなく安堵する。ほんとうに有難く思う。

それにしても、石巻駅の周辺は、もともといわゆる“シャッター街”だったとはいえ、ここまでさびれているとは思ってもいなかった。もっとも驚いたことは、道路がでこぼこで、地盤沈下したために建物と道路の境目は壊れたままの状態で、修理される気配もなく、放置されていたことだった。

「何ひとつ、復興していない」

そういう印象を、私に与えた光景のひとつだった。

今日は午後と夜にコンサートが予定されていて、まず、サズ(トルコの弦楽器)演奏者・大平清さんの演奏を聴く。ウード奏者の常味さんのように、時折解説をまじえながらの演奏は、たいへん興味深く、面白かった。

彼の演奏会場となった所は、商工会議所近くに新しくできたスペースだったが、お客さんはあまりいなかった。だいたい、ポスターのような宣伝も案内も何もない。

結局、この週末に石巻高校で行われる慶応大学(商工会議所の会頭の母校)の合唱コンサートがメインで、それまでの間に、いろんなジャンルの演奏家を呼ぼうということで、私なども呼ばれたということらしい。現地に行って初めてわかったことではあるが、この仕事を引き受けるにあたって、なんとなくもやもやしていた原因がはっきりした。

夜は、以前喜多直毅(vn)さんとのデュオのコンサートの時にお世話になった、医師のご自宅兼ホールで、ソロで演奏。ホールには2台のグランド・ピアノ。上階にはチェンバロもあった。

ちなみに、この建物は北上川沿いにあり、津波が押し寄せたところだ。が、新築したばかりで、耐震設計が施されており、建物は残ったそうだ。実際、その隣には、奥から流されてきて、反転して止まった家屋が、まだそのままの状態で放置されていた。

ソロでの演奏は、正直、少し中途半端になってしまったと思っている。演奏の途中で、以前“龍”を感じた時と同じような感覚になった。普通はここでもっとイクのだけれど、瞬間なぜか「怖い」と感じ、自分の中でものすごくブレーキがかかった。これ以上イクと、津波や大勢の人の声が押し寄せてくるような感覚に襲われたのだ。何か、“磁場”が崩れる、というような感覚。自分にはそうした状態に耐えられるだけの身体性がまだ備わっていない。わざわざ東京から来てくれた人たちにも申し訳ないと思う。が、どうしようもなかった。

終演後、高校時代にお世話になった、石巻在住の先生のお心遣いで、東京から来た人たちと会食。みんなは深夜の夜行バスで東京へ戻るので、あまりゆっくりはできなかったけれど、いっしょにひとときを過ごせてよかったと思う。

その料理屋さんは、石巻でもいち早く営業を再開した所と聞いた。とはいえ、周辺にはほとんど人の気配がない。ガレキが片づけられた後の空き地も目立つ。

久しぶりに再会した先生に誘われて、いわゆる飲み屋街に行く。祝日ということもあって、お店はあまり営業しておらず、ひどくさみしい。が、なんとか一軒、先生のお知り合いのお店が空いていて、しばらく話しをする。その飲み屋街一帯も津波に襲われた地域だ。

宿泊したのはつい一週間前くらいに再開した民宿。玄関先はまだ工事中。すぐそこには北上川。周辺にはやはり空き地が目立つ。宿泊客はほとんどが建築業者のようだ。実際、石巻のホテルはほとんど業者に押さえられていて、普通の人は予約ができない状態らしく、主催者がここを確保してくれたのだった。

地元の人たちは、深夜に海の近くなどには絶対行かないという。少し風もあったせいか、窓が音をたてる。目を閉じて、祈りながら眠る。そうしなくてはいられない心持ちの夜だった。

それにしても、私が演奏した、医師の家のホール近くには、ラブホテルのネオンが光っていた。いやはや、人間とは。



3月21日(水) 帰京

翌朝、石巻工業高校の主将のしっかりした宣誓をテレビで聴く。

ほどなく、高校の時の先生が車で迎えに来てくださり、市内を案内してくださった。

私が小・中・高と学んだ学校の校長先生は、ここ、石巻の出身で、その後も石巻から先生をたくさん呼んでいる。その校長先生の生家があったという所は、北上川の近くで、やはりもう跡形もなかった。その後方にお寺があり、墓地が少し残っている辺りだ。思わず、黙祷を捧げる。

日和山へ向かう途中で、花束や子供の玩具が供えられている所を通る。聞けば、幼稚園のバスが、そのまま高台にいればよかったのに、子供たちを家に帰すために海の方へ下ってきたばっかりに、津波に襲われ、小さな命が失われた場所だという。現在、裁判が起きているそうだ。

そして日和山。まず、神社に参拝して、海の方向を見る。言葉にならない光景。石巻の行方不明者は800名以上にのぼるそうだ。手を合わせて祈る。

北上川の河口付近には、ガレキが積まれたピラミッドのようなものが目に入る。白いテントは、やっと少し再開した魚市場らしい。が、海は放射能に汚染されているし、仮に魚が獲れたとしても、それを保管する冷凍庫や冷蔵庫、氷屋さん、加工業、その加工するのにかかわる様々な工場など、まだ何もない。

さらに、左へ旋回して、北上川の中州にある石森章太郎の美術館の白い屋根を見る。再開の見通しは立っていないという。左奥の山の上には石巻専修大学が見える。思わず深く息を吐く。

その後、先生と近くのお店でシュークリームを食べ、駅まで送っていただき、別れる。重い無力感が私を包む。

仙台駅で、石巻在住の大学の時の後輩に会って話しをする。短い時間だったが、やっぱり会っておいてよかった。彼女は普通に暮らせることの有難さを語っていた。

夕刻、帰京。いったい自分は何のために石巻へ行ったのか。復興は遅々として進んでいないとは聞いていたものの、これほどまでに復興していない現実は、いったい何なのだ。様々な思いが頭の中を駆け巡り、心には薄暗い雲がたちこめる。



3月23日(金) リハ

拙宅にて、シューベルト「アルペジオーネ」のリハーサル。なんとなく現実味が薄く感じられる。



3月24日(土) モーツアルト

翠川敬基(vc)さんの企画で、私はモーツアルトのソナタと、翠川さんとシューベルト作曲「アルペジオーネ」を、人前で演奏した。喜多直毅(vn)さんはJ.Sバッハのパルティータを独奏。

後半は3人による完全即興演奏。この形態のピアノトリオを始めた当初、翠川さんはクラシック音楽の演奏と即興演奏は、同じ日には絶対演奏できない、と豪語されていたけれど。あら?

今回、モーツアルトのソナタを演奏するにあたって、もっとも念頭に置いたのは、モーツアルトの狂気のようなものを、如何に表現してみるか、ということだった。なので、音楽史的あるいは当時使用されていた楽器などを考慮すると、私の演奏はそこからはだいぶはずれたものになっていたかもしれない。

モーツアルトが譜面に音符を書きつける動作そのもの、その時、モーツアルトが歌をうたいながら書きつけたであろう、その行為そのものを、私はとても意識した。そう考えると、映画『アマデウス』ではないが、小声で歌ったり、スタッカートで元気よく歌ったり、手を振りながらフォルティッシモで歌っているモーツアルトの姿が見えてくる感じになった。

そういう意味で、ある箇所のグレン・グールド(pf)の解釈は、私にはたいへん気に入ったものになり、その部分のアクセントについては、それを拝借した演奏もした。

それにしても、緊張した。クラシック音楽を人前でお金をいただいて演奏するのは、命を縮める。



3月25日(日) 能楽二番

水道橋にある宝生能楽堂で行われた“宝生 春の別会能”に行く。能は「景清」「源氏供養」「道成寺」という、たいへん重い三番。途中に狂言「粟田口」が入ったり、仕舞が入ったりしながら、正午から夜7時過ぎまで観るのは、この坐骨神経痛持ちの私にはとても耐えられそうにないので、「源氏供養」から観た。

今回の「源氏供養」は“真之舞入”という特別なヴァージョンで、宝生流でしか見られない珍しい演出だそうだ。そのシテを、私が大学時代にお世話になった前田晴啓先生がつとめられた。非常にこらえた、ゆっくりとした仕舞で、その気迫は充分だったと思う。隣にいた後輩は熟睡していたけれど。

また、その詞章には源氏物語54帖すべての巻名が織り込まれていて、それもとても美しかった。

仕舞をはさんで、最後は「道成寺」。シテは澤田宏司さん。

道成寺の鐘が、男性3人によって運ばれてくる。彼らのかかとは床についていない。そして鐘はとても重そうだ。というか、実際にたいへん重く作られていて、特に宝生流の鐘は重く、90kgくらいあるらしい。

途中、少し眠くなってしまったが、なぜか“乱拍子”に入るところで、パッと目が冴えた。気がつけば、舞台上にはものすごい“気”が満ちている。シテ方と小鼓一挺のみによる、非常に緊迫した長い時間が続く。

シテ方が足先を少し持ち上げパタンと落とすと同時に、小鼓が音を合わせる。この呼吸合わせがものすごい。他の流派と異なり、宝生流は同じ場所で踏み、動きが少ないそうだが、あのシテ方と小鼓のかけひきや間(ま)は、もうほとんど瞬間に賭ける闘いのようなものだ。解説によれば、その時のシテ方の心拍数は200に上っているらしい。

なのに、あろうことか、携帯電話の音が鳴り響く。しかも、その人、切らないため、延々と鳴り続けている。空間を占めていた緊張の糸が切れる。シテ方は身体が不安定に揺れている。かわいそうに・・・。

そうしたら、再び、同じ携帯電話が鳴った。あり得ない、と次第に腹が立ってくる。それでもシテ方はなんとか持ち直して、乱拍子をやりとげていた。

宝生能楽堂は古い建物なのだろう。携帯電話の電波をシャットダウンするような設備などは望むべくもなく。さらに、椅子の座り心地が非常に悪い。あの椅子は腰に悪い。私は着物を着た人は帯があるから座り易いのかも?と思ったりもしたけれど、それにしても辛過ぎる。受付の態勢も旧態依然たる雰囲気。あれでは、若い人はここに能を観に来ないと思ってしまった。

歌舞伎界では、海老だの亀だの、若手ががんばっているが、能楽界で人を呼ぶことができているのは、狂言方の野村万斎だけだ。実際、能は観ずに、彼の狂言だけを観に来るファンもいるくらいだ。

終演後、大学時代の後輩たちと食事をして帰る。OB会のことも話題になる。



3月26日(月) リハ

午後、辻康介(vo)さん、立岩潤三(per)さんと拙宅にてリハーサル。

今や、すべて携帯電話(iphoneあるいはスマホ)1台で、なんでもできるのだ、としみじみ思う。録音、録画はもちろん、ある曲の元音源をネットで検索して、その場でみんなで聴くこともできる。一昔前では考えられない現実だ。



3月27日(火) ああ、シャンプー

渋谷・公園通りクラシックスにて、“Inventio”すなわち、辻康介(vo)さん、立岩潤三(per)さんと始めた新ユニットのライヴ。

演奏しながら、おおいに笑ってしまった。「シャンプー音頭」では、立岩さんは神様の声としてデビュー。辻さんのユーモアのあるトークも歌も、会場をなごませる。そんな側面と、シリアスだったり、ちょっぴりせつなかったり、いろんな側面を持ち合わせているユニットだと実感。いい方向に展開していくと、非常に音楽の幅の広い、面白いユニットにくなっていくだろうなあ思う。

終演後、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」蒐集家の友人もまじえて、次回ライヴ会場の下見に。同じ渋谷にあるdressへ行き、しばし歓談してから帰宅する。



3月28日(水) 栄養補助食品

今日から、少々高価なれど、栄養補助食品を飲用してみることにする。半年後、お肌がきれいになっていたらお慰み。



3月29日(木) 尺八の音空間

午後、パール・アレキサンダー(cb)さんが企画、主催しているライヴ、“にじり口”(於 四谷・喫茶茶会記)のリハーサル。本番は6月なので、ずいぶん早めのリハーサルだが、共演者の中村明一(尺八)さんのお宅に伺う。

中村さんのスタジオはご自宅も兼ねた立派な建物の地下にあり、尺八の音が快く響くように設計されているとのこと。また、録音もできるようになっていて、なんとも羨ましいかぎり。

このライヴは基本は即興演奏だが、中村さんが1曲、私が1曲、持ち寄ったものを練習する。

尺八の音というのは、ほんとうに風のようだと感じる。そして、ある時はまるで合気道のように鋭く空気を切り、ある時は空気を震わせて色彩や肌触りを変えるように感じられた。

概して、邦楽器の持つ空間の支配力のようなものは圧倒的だ。私のピアノ演奏は、響きを志向している点において、実はそうした邦楽器への憧れを内包しているのかもしれない。

尺八と言えば、虚無僧。幼い頃に見たテレビ時代劇に出てくる姿に、私の記憶は運ばれる。その尺八には、実は刀が仕込まれていたりして。

だが、音楽として最初に意識したのは、中学か高校の時に聴いた、武満徹作曲の『ノヴェンバー・ステップス』だった。この耳にとても新鮮に響いた。

尺八奏者と共演するのは、おそらく四半世紀ぶりくらいになる私だが、当時の耳と今の耳とでは違うし、指も違う。ともあれ、この3人での演奏が楽しみになってきた。

リハーサル後は、中村さんのご提案で、3人で会食しながら、いろいろなことを話す。お互いを理解するのに必要な時間だったと思うし、事実、とても貴重な時間だったと思う。中村さんに感謝。



3月30日(金) 四半世紀ぶりの共演

大泉学園・inFにて、高原朝彦(十弦ギター、プサルテリー、テナー・リコーダー)さんとデュオで演奏。

彼のことは、実は約四半世紀前から知っている。お互いにまだ若く、新宿にあったJBLサンセットというお店で、いわば修業のような感じでライヴをやっていた時代のことになる。ただ、こうして共演するのは、先の池上秀夫(b)さんと3人でやったライヴについで、2回目。さらに、こうして2人だけで演奏するのは初めてのことだ。なんとも感慨深い。

演奏はすべて即興演奏。後半にはそれぞれの独奏も差し挟んだ。

終演後、しばし歓談。高原さんが持って来られた小さなアンプについて、少し意見を申し上げる。音量が少し上がった時に、ひずんで聞こえた気がしたためだ。なので、このアンプは高原さんが表現したいことを充分に引き出してくれるアンプではないのではないかしら?と感じたのだった。

音色、音量、さらに音楽の好みは、人それぞれだ。それについて他人がとやかく言う必要はもちろんない。

が、このお店には、別のギターアンプもあったし、少し不安定ながらもマイクもある。つまり、音の増幅について、他に方法があったならば、少なくともそれを試してみる余地はあったのではないかしら?と思ったのだ。「私はいつも絶対これ」に固執していたのでは、様々な演奏環境(小屋の響き、共演者が使う楽器など)に適応できないのではないかしら、と。

もっとも、これはピアニストの宿命、すなわち、自分の楽器を演奏できない運命にあるピアニストは、常に、その場、その時に、もっとも最適かつ柔軟な対応をしなければ生きていけない、ということに由来するかもしれない。

そんなこんなは、その後も彼とのメールのやりとりの中で、互いに誤解がないように、きちんと話しができたと思っているけれど。



3月31日(土) 詩歌

『詩歌の響宴 〜朗読と語りのゆうべ〜』を聴きに、早稲田にある専念寺へ行く。これはこのお寺の住職で、早稲田大学の教授、詩人でもある守中高明さんが企画された催しだ。

岡井隆さん、平出隆さん、倉田比羽子さんが、それぞれご自分の作品を朗読し、解説などをされた。途中で、チェロの演奏も入ったが、私の耳には少々不満な内容だった。

平出さんは話しておられた内容が少々不明なところがあるように感じられた。倉田さんは若い時に演劇を志していた時もあったとのことで、朗読は一番鮮明だった。が、詩を書く根拠を、自分自身に固執し過ぎておられるような感じがした。

抜きん出て、この人はすごいと感じたのは、岡井さんだった。戦後「アララギ」に参加するなどして、短歌を作っておられる方だ。その語り口は、というより、使われている言葉には一切の無駄がなく、噛み締めるように語られる短歌は、しみじみと伝わってくる何かがあった。

岡井さんは昭和3年生まれだそうだが、毅然とされており、言葉は平易で、話していることの筋は凛としていた。吉本隆明を盟友と言い、吉本に捧げて書いたという短歌は非常に印象的だった。

正直、結果的に、この企画はいったい何をめざしたのか、よくわからないところもあるのだが、岡井さんの“声”を聴くことができたのは、すてきな体験だった。




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