1月
1月1日(火)  初春

初春
本年もどうぞよろしくお願いいたします
みなさまにとって、すこやかで、いい一年でありますように



ということで、新しい年がやってきた。なんとか易断によると、今年は「育英運」という年回りらしい。「堪忍は一生の宝」とも。

今回は珍しく年内に年賀状を書いた。12月半ばのぎっくり腰のおかげで、年内に大掃除をすることはまったくできなかったということもあるだろう。

元旦は母と神社にお参りに行き、今年は作らないと言っていたのに、結局作ったおせち料理とお雑煮で正月を迎える。ただそれだけのことを幸せに思う。なんとはないことが大切に思えるようになった。


1月4日(金)  脱力無我

生物というのはもともと次の瞬間にどう動くのか決まっていない。最も抵抗なく次の行動に移れるのは、ふわっとした状態だ。どこかに力が入っていると、ある方向に動きやすくても、別の方向には動きにくくなる。

「脳も体の一部に過ぎず、無意識が人間の行動を左右している」という重要な事実が忘れ去られてしまった。

(キリスト教、ユダヤ教など一神教の世界とは)
対照的に、禅宗などは昔から「自我を捨てろ」と説いてきた。無我で良かったのに、日本人は西洋流の自我を輸入し、「頭で考えれば何でも解決する」「みんな自我を持っている」と錯覚し始めた。

これらの言葉は読売新聞に掲載されていた、養老孟司の文章の抜粋。このようなことは既にいろんな識者が言っていることだとは思うが、こういう話の流れを辿ると、私の場合は明治近代文学へ遡る。二葉亭四迷が完成できなかった小説のことや、神経衰弱や癇癪や胃潰瘍やに悩まされ続けた夏目漱石や。

で、今年は自分の「姿勢」を根本的に見直すことにした。

まず、先月ぎっくり腰をやった時に、太極拳や整体の先生から同時に指摘を受けたことが、姿勢を直さなければいけないと強く思ったことにつながっている。普段の生活の中で、もっと気をつけなければいけない。しかし、演奏する時のフォームを変えると、またしばらくの間、ぎこちなかったり、どこかが痛くなったりするんだろうなあ。人間の身体はその状態に慣れるまで、けっこう時間がかかったりするし。

そして別の意味で、生きる姿勢のようなものも。なーんて、実にエラそうでいけない。簡単に言えば、養老さんや二葉亭さんや漱石さんが言っているようなことを、自分の問題として考えないといけないと思っている。って、頭の悪い私には限界があると思うが、考えないよりは考えたほうがいい。

少なくとも、そうした西洋的な“自我”の存在というものを、文学や音楽(特にジャズや即興演奏)から学んでいる私と、半世紀生きてきた自分が育っているこの日本の風土や環境のようなものには、どこかに矛盾がある。そのことから目をそむけないことだ。そして、力を抜く。これが難しい。

漱石の生涯よりも多く生きてしまっている自分だが、やっとほんの少しだけ「則天去私」を理解する入り口に立っているような気がする。こんなこと、やっぱり学生時代にはわからなかったと思う。漱石などの他人の言葉を借りて喜んでいただけのような気がする。すべてを自分に引き受けなければ、何も始まらない。


1月5日(土)  テレビでクラシック

TV「のだめスペシャル」を観る。漫画だ。って、そもそも原作が漫画なわけだけど。それでも、ベートーベンだ、ラヴェルだ、ブラームスだ、と聴いていると、ドラマの中ではとりわけ音楽的に盛り上がる箇所が強調されているためだろう、これらの作曲家たちが残した音楽の圧倒的な力を感じる。

それにしても、“千秋さま”役を演じている男優の指がまことに美しい。私は指フェチか?

また、昨晩、NHK・教育で放映されたピアノ三重奏では、メンデルスゾーンの第一番が演奏されていたが、どうにもその演奏が好きになれなかった。思い入れたっぷりの表現をしているチェロには多少なりとも感心したが、ピアノは力が入り過ぎているように感じられ、特にヴァイオリンの歌い方、ボウイング、ピッチなどには?マークが飛び交った。

偉そうなことを言える立場にはまったくないが、この曲を黒田トリオで演奏した後に耳を患った私には、どうも“メントリ”はやっぱり鬼門の曲のような気がする。嫌いじゃないが、好きになれない感じが残る。

しかし、あれだなあ、やっぱり太っているのは美しくないなあ。どんな音も力任せのように聞こえてきていけない。そのピアニストを見ていてそう感じてしまった。今年の目標の一つは、痩せる。


1月7日(月)  聞こえない耳

浜崎あゆみが自身のブログで左耳が聞こえなくなったことを公にしたらしい。

年末の紅白を見ていて、すぐに何かヘンだと感じた。あの声の出なさ加減は風邪をひいたというようなものではなく、目に力がなかったことも含めて、精神的なもののように思われたからだ。

最近の歌手たちは耳に直接モニターをはめこんでいる。インカム・マイクも含めて、それらは身体の動きを自由にするから、踊ったり走ったり、激しい動きを伴う歌手には、とても便利な道具であろうことは容易に想像がつく。

でも、あれ、絶対耳には悪い、と私は思う。というか、音楽を聴く耳がおかしくなる。空気を介さない音は、少なくとも私の耳にはすこぶる良くない。先月、二日間に渡ってレコーディングをした後に残った身体のストレスがものすごかったことが、それを物語っている。その最後の悲鳴がぎっくり腰だったのかもしれないとさえ思う。

ちなみに、大きい箱型のモニターをどっかと置いていた寺尾聡の「ルビーの指輪」の面々は、今や非常に懐かし〜い雰囲気を醸し出していたのが、逆に印象に残っている。バンドはあれっしょ。って、私も旧いかも〜。

紅白の時、あゆも左耳にそのモニターをはめていたと思う。その時は聞こえていたのだろうか?いや、そうは思えない。相当つらかったと思う、と勝手に想像する。

片方の耳が聞こえない友人やミュージシャンはいる。それはもう仕方ないことなわけだけれど、私には他人事ではない。ああ、耳も眼も大事にしてあげなくては。

そう言いながら、PCに向かって、『くりくら音楽会 vol.4』のフライヤーのための原稿を書き始める。そういえば、このPC、どこかがぶっ壊れて、音をまったく出さなくなってしまっている。メールの到着時の音やクリック音も、もちろん音楽も聴けない。やれやれ。


1月8日(火)  いのち

高校時代の同級生の訃報を聞く。クリスマスの日に亡くなったそうだ。11月にも同級生を失っているから、なんともやりきれない。さらに年末、今でも現役で空を飛んでいる同級生の旦那様と14歳の息子さんが、交通事故で突然天国に逝かれたという。スチュワーデスである彼女を空港まで送った帰りの、アメリカでの出来事。

今年は年賀状がこれまでで一番多かったと思う。結局200枚余りは書いた。そして喪中葉書や年末にお身内が亡くなった方たちは、一割にあたる20人を超えた。残念ながら喪中関係のしらせもこれまででもっとも多くなった。そういう歳になったということなんだろうとも思う。

年が明けてから、ずっと大掃除をしている。かなり丁寧にやっている。誰が得するわけでもなく、誰の役にも立たないのに、なんとなく“整理”している。突然倒れて救急車で病院に搬送されるような、予期せぬ出来事が起きた場合に備えて、下着だけはきれいなものを身につけている、と言っている人がいたが、そういう気分に近い。


1月10日(木)  骨を意識する

午後、年明け最初の太極拳の教室に行く。実際、太極拳そのものよりも、根本的な身体の動かし方や呼吸を「意識する」という、今や私にとってはとっても貴重な時間になっている。

先生は自分の骨を動かすことができる。腰の辺りや鎖骨の辺りなど。また手の指の第一関節だけを動かすこともできる。さらに逆腹式呼吸でわかるお腹の動きの振幅も大きい。つまり、意識を集中することで、自分の身体や呼吸をコントロールすることができる。でも、意識していながら、意識していないようでもある。それに、無駄な力は全部抜けている。そこがすごい。

ということで、私の周辺には再び身体や呼吸に関する本が積まれている。ナンバ走り、タオの気功、スーパーボティを読むなどなど。が、ま、読むのも大事だろうが、実践のほうがよーくわかる。

この太極拳の教室の扉を開いてから、ツアーなどでかなり休んだものの、一年が経った。“五功”という型の一つをやっていて、「さっきより良い」と先生に言われている自分が少しだけわかるようになった。何がどうというのではないのだけれど、自分の意識が自分の真中にあるような感じで安定している気がしたのだ。気のせいか?

夜は初仕事。喜多直毅(vl)さんとのデュオで演奏。彼曰く、セレブな楽器。その音色はとても甘く、太い。これまでとまったく響きが違っていて、最初は少しとまどったが、なんかもうわあーっという感じ。音色が音楽を決める、とさえ思った。

しかしながら、午後身体を使い過ぎたのか、腰が痛い。気をつけねば。


1月11日(金)  空を仰ぐ

自宅の真南にある一軒屋が建て替えられることになり、この7日から解体工事が始まった。朝9時きっかりに大きな音がして起こされる。これから約半年、寝不足にならないようにしないといけない。

それで、昨日、目の前が更地になったら、広い空が見えてきた。不思議なもので、そうなると空を見上げるようになる。気分がいい。そのうちまたすぐに壁ができるのだろうが。なにせこれまでの生涯、目の前に他人の家の壁があるような生活をして来なかったので、現在の状態でもかなり違和感を抱きながら生活していたものだから、束の間の空を味わっている。

世の中には“風水”というものがあるらしく、東の部屋は音楽に向いているらしい。でもって、そこには金銀赤白のものを置くといいらしい。あら、そういえば私宅では東にあるじゃないの。で、そんな色はあるかなあ?と思い浮かべて見ると、あるじゃないの、ピアノが。これら四色が全部揃っているわいな〜。


1月12日(土)  鎖骨で呼吸してみる

夜、演奏している時に、鎖骨で呼吸する意識を持ってピアノを弾いてみる。こんなこと、初めての試みだ。

したらば、ずいぶん自分が客観的に感じられた。演奏が盛り上がってくると、どうしてもやや前かがみになる。その時、鎖骨の辺りはかなり硬く緊張していることがよくわかった。それでピアノをバリバリ弾いている最中に、意識して鎖骨を開くイメージで息を吸ってみた。

そうすると、どうもなんとなく身体が自然に楽になっている気がした。指先だけ、あるいは腕だけでピアノを弾いている感じがほとんどしない。おそらく肩、それから背中全体を使っている感じがした。

もしかしたらこれは気のせいかもしれないのだけれど、たったこれだけのことで、なんだかずいぶん身体的感覚が違う。疲労感も少ないように思う。乳酸がたまらないような感じがする。

何事もやり過ぎはよくないし、誤ったやり方もよくないと思うので、太極拳の先生にも相談しながら、しばらくはこうした自分の身体の声に耳を傾けたり、それに伴う改造計画を意識的にやっていくことになるだろう。


1月14日(月)  バーバー

ブピー、ドドドドド、プホーッ・・・。埼玉県上尾にはフリージャズや即興演奏のCDをかけている“床屋”さんがある。

とは、聞いていた。かくて本日、このお店に初めて行き、初めて演奏し、しかも“ふちがみとふなと”の渕上純子さんと、これまた初めて二人だけで演奏する機会に恵まれた。

往き道。外環道に入る大泉入り口で、道路が火災だかなんだかで、とにかく車が外環に乗れない。この時点で頭は少々パニック。カーナビは付いてないし。で、もうほとんと勘を頼りに車を走らせる。間違ってはいなかったようで、我ながら妙に感心してしまう。渋滞して車が停まっている合間に地図をめくり、国道17号線を求めて車を走らせる。結果、約1時間近く遅刻して店に到着。

演奏する場所は一階の床屋さんではなく、ご自宅の三階にあるオーディオルーム。ピアノはアップライト。10人も入ればいっぱいになる感じの広さだっただろうか。当初、録音器材が私たちの目の前にあったので、「なんとなくエラそうにしている」という純子さんとの意見の一致のもと、動かしていただいた。

で、去年リハーサルをやった曲のみならず、結局本番当日に初めて合わせた曲もけっこうやることになった。主に前半は渕上さんの曲、後半は私の曲が中心のプログラムという感じだ。

渕上さんの“言葉”が断然面白い。

もっとも印象に残っているのは、私が草野心平の詩をモティーフにして作った曲の、その詩の朗読をする部分で、彼女が私の朗読に折り重なるように京都弁で読んだことだ。「この発音(←というのは、私の発音を指す)は私の身体にない」と彼女は言う。もう、思わず、ひれ伏しそうになった。

アフリカを一人で旅行している時にできたという「蛍」も、ちょいとシュールですばらしかった。その他、どの曲もおそろしくすてきだ。1曲のうち、どこかが必ず心にひっかかる感じ。こうして生きて生活している中で、ほんとうはそこにあるのに、見ようとしていなかったことがある、見逃していたことがある、ということに気付かされるような感じ。それが歌そのものの力につながっている。

そして、その言葉は彼女の歌あるいは声というより、“息”によって、いのちを吹き込まれている。なんというか、お腹のみぞおちあたりに振動が伝わる感じだろうか。ヘンな言い方だが、下半身的、みたいな。

とても楽しかった。

私はピアノのみならず、久しぶりにアコーディオンやらタイコやら、歌をうたったり、朗読したり、白い紙を振り回したり、あれこれやった気がする。特に企んでいたわけではなく、なんとなく漠然としたもやもやとしたものがあって、自然にそうなったのだから仕方ない。

終演後、床屋さんのフロアでお客様たちと打ち上げ。お客様の中には「女子高感覚が良い」という方もいらっしゃったが、あら〜ん、そんなに初々しいのかしらん?この歳になってそのように言われることは良いのか悪いのか?って、このようなデュオは他の誰ともできないだろうなあ、と思ったり。


1月17日(木)〜19日(土)  中伊豆・小旅行

18日に誕生日を迎える母と二人で、中伊豆へ小旅行。バス乗り放題のフリーパスを購入し、市からの助成金(旅をする時、一人3千円の援助を、年に二回受けられる)も使い、冬の修善寺へ。


17日(木)  いのししさん、今日は雪よ

早起きをして、都心を通らず、川崎から踊り子号に乗って修善寺へ。このような季節、ほとんど人は行かないらしい。車内はよく空いている。

駅に着いてからバスでいのしし村へ。途中から、雪が舞う。昼食時だというのに食堂には誰もおらず、閑散としている中、いのししの肉が入っているというカレーなどを食べる。外国産のいのししに合掌。

その後、野外で行われるいのししのショーを観る。観客6人。とにっかく、寒いっ、ぞっ。このいのしし村は何年か前に経営者が変わったらしいが、いのししショーのなんとも殺風景なこと、このうえなく。BGMがないから、冷えた間が空く。曲を作ってあげましょか、と思わず言いたくなくった。いのししはユーモラスなれど、なんとなくちょっとさみしい気持ちになる。あまりに寒いので、いのししレースを見るのはやめる。

それから浄蓮の滝へ。バスで2分だから、晴れていれば歩こうかと思ったが、寒過ぎる。雪はあがり、階段を下りて滝を見る。水の色がエメラルドグリーンでとてもきれいだった。

そして夕方、吉奈温泉へ。バス停から宿まで歩くことにする。ここの温泉は子宝の湯で、皇太子と結婚する前の雅子様が家族と来たのよ、と母は言う。すべてのネタは美容院で読む週刊誌にあるらしい。

温泉はぬるめで、長時間ゆっくりお湯につかる。この宿は岡本太郎画伯が常宿にしていたらしく、“太郎さん風呂”なるものもある。椅子が岡本太郎のキテレツなデザインだったりしている。。

食事もゆっくりと。もっとも美味しいと感じたのは、山葵。ツンと来て、ネバネバしていて、深みとコクがある感じ。部屋に戻ったら、ちょっとだけ飲んだビールがきいたのか、睡魔に襲われ意識を失う。極楽。その後、再びお風呂に入り就寝。


18日(金)  仰向けに寝てみた

朝、当然、お風呂に入り、食事。懐石コースとやららしく、一番最初に麺類を食べなければならない。それだけでももう充分な朝食だったが、いろいろ食べる。

そこからいったんバスで修善寺駅へ出てから、“虹の郷”へ。○○村と名付けられたエリアがいくつかあり、春になれば色とりどりの花がいっぱい咲くらしい。ので、駐車場はものすごく広い。けれど、今日は人はまばらにしかいない。

ここに来たのは、夏目漱石が修善寺で大吐血して死にそうになった(「修善寺の大患」と言われている)宿、菊屋の部屋が当時のまま移築されている、と聞いたからだ。置いてある資料などのほとんどはコピーされたものだったが、次の間や廊下、そして床の間のある十畳の部屋は立派な日本間で、そこで甘酒をいただきながら、しばらく雰囲気を味わう。そして仰向けになって寝てみた。ふーん、こういう天井をみつめていたんだなあと思うと、妙に感慨深い。

それにしても、当時(1910年)の漱石、それに死にそうだと電報が入ってかけつけた家族や門下生は、こんな修善寺まで、当時、いったいどうやってやってきたのだろう?と突然質問したくなった。

それで、お姉さんに訊いてみた。あまりきちんとは知らなかったようだが、大仁(修善寺の手前の駅)までは汽車があったようで、そこからは馬車だったらしい。30分間の意識不明状態を経て生還した後東京へ戻る時は、担架に乗せられて、新橋駅からも担架に乗せられて病院に入ったようだ。

つくづく思う。漱石はやはり超エリートであり、超ブルジョアだったんだなあ、と。ここ、修善寺は由緒ある温泉場ということになっているのも、古くから文人墨客が訪れていたからなのだろう。そう考えると、なんとなく息が苦しくなってきた。中伊豆と言えば、なんたって川端康成の名が浮かんでくるが、源氏ゆかりの墓なども残っており、山間にある修善寺という温泉場自体は、ぱーっとした解放感のようなものからはかなり遠い趣がある。

など、いろいろお姉さんに質問したりしたからか、私はルポライターか何かに思われたらしい。違う、ってばあああ。

それから修善寺に戻り、昼食に蕎麦をいただく。ここのお蕎麦屋さんにはざるとかけしかない。私の好みのタイプのお蕎麦で、すこぶる美味。ちなみに、この修善寺温泉には“ふつうのそばや”という名前の蕎麦屋があった。他がよっぽど普通ではないのだろう。その後、独鈷の湯、竹の小径などをゆっくりと散策。

今晩の宿は、実は某電話会社の抽選に当たったもの。私は懸賞のようなものにめったに応募しないので、たまたま当たってしまって、そんなことをすっかり忘れていた本人がびっくり。ともあれそういうわけで、一人一泊四万円以上する宿に泊まれることになった。それで、これを母の誕生日にプレゼントしたのだった。

竹林に囲まれた宿の玄関に入ると、まず目に入るのが堀文子さんの作品。この宿を選んだのには、こういう理由もあったのだった。部屋は次の間を含めて三部屋あり、とても広い。どこもきれいに掃除が行き届いており、窓ガラスも一つの曇りもない。露天風呂も気持ちよく、充分にリラックスする。さすがに云万円の宿だけのことはあると感心する。

夕食も朝食も部屋でいただく。係りの人が頃合いをみはからって順番に料理を出してくれる。夕食には温かいご配慮をいただき、お頭付きの鯛とお赤飯を出してくださる。それで、堀先生の絵をジャケットに使わせていただいたCD『ゆめ』を女将に差し上げる。実際は大女将と堀先生が親しくされているらしい。

就寝前にもう一度お風呂に入り、美しく光る月を見上げる。部屋に戻る時に気付いたが、通り道にはそのジャケットに使われている絵が新たに飾られていた。ああ、私しゃもう、ふにゃふにゃである。


19日(土)  朝からお腹いっぱい

部屋で作られたお味噌汁などをいただき、朝からご馳走という感じ。やはり懐石なので、お蕎麦から食べなければならない。超満腹な朝。

宿を出て、再び修善寺を散策。ぶっきらぼうなおばあさんがやっている所で射的をやったりして、きゃっきゃっと騒ぐ。お土産も買い求め、バスに乗って修善寺駅に向かい、踊り子号で帰宅する。

ということで、懸賞に当たった一泊だけでもよかったのだけれど、いのししが見たいという母の希望をかなえるべく、せっかくだからと二泊の旅。ゆっくりとした、なーんも考えない、寒い冬の旅でござんした。


1月19日(土)  錚々たる

修善寺から戻って、吉祥寺の“サウンドカフェ・ズミ”で行われる北里義之さんが出された本『サウンド・アナトミア』(青土社)の出版記念パーティーに急ぐ。

出席者は20余名で、四谷にあるジャズ喫茶・いーぐるの店主、後藤雅洋さんのブログの記述によれば「いわゆるジャズ左派」ということになるらしい?

(以下、敬称略)副島輝人、竹田賢一、後藤雅洋といった大先輩にあたる評論家の方たちをはじめとして、大木雄高、横井一江、福島恵一、岡島豊樹(元「ジャズ批評」編集長)夫妻、マーク・ラパポート&八木美知依夫妻、加藤彰、鈴木美幸、沼田順、寺内久、斉藤安則、それに演奏を聴かせてくださった近藤秀秋、巻上公一、といった錚々たる顔ぶれ。これにこの本の出版を推薦した大友良英さん、大谷能生さん、平井玄さん、昨年亡くなった清水俊彦さんといった人たちがいたならば、これはもう、相当濃い。

会は副島さんの明解な祝辞と乾杯で始まり、途中で高柳昌行さんの秘蔵ビデオ映像などの公開もあり、巻上さんのすばらしい口琴ヴォイス・パフォーマンスあり。自己紹介やスピーチなどもあり、午後5時に始まった会だったが、ほとんどの人が予定の時間をはるかに過ぎた午後10時半頃まで、この場にいたと思う。というのも、なんだかすごい。非常に独特の雰囲気と温度があった。

北里氏のことを「僕の後継者だ」と言ったのは竹田さんだったが、主として高柳さんのことを論じた、いわば非常にコアな著作に対して、これだけの人が駆けつけ、他にも賛辞を送っている人がいることを聴くに及び、この本が出版されたことの歓びと共に重みも感じる。というか、そういうことをもっとも感じているのは著者自身だろうと思う。とてもいい会だったと思う。

一般的に、音楽家は評論家を嫌い、音楽を文学で語るなとか、言葉で表せないから音楽をやっているんだとか、気持ちよく演奏していれば客も気持ちいいのだというような快楽主義に陥って言語が入る余地を排除するとか・・・、そういうところがあるのが現状だと言っても過言ではないだろう。

また、いわゆる音楽評論家と呼ばれる人たちの中には、自分自身と真摯に向き合おうとせず、例えば音楽家が日々練習したり自問自答しているのに対して、自らの言葉や文章を鍛えようとせず、文体に意識など持たず、自分を問わない人もいるように思われる。社会的責任のないような、趣味の延長のような姿勢で書いているような文章にあたることも少なくないように思う。

私は音楽家と評論家は対立するような関係にはないのではないかと考えている。それは、今を生きる人たちの音楽を聴く耳を開き、鍛え、創っていく両輪のようなもの、貧しい音楽状況をより豊かにしていく両翼ではないかと思っている。これは決して啓蒙主義ではなく、いい音を、いい音楽を、自分の人生でもっと知っていると楽しいわよおおお〜、という感じ。

さらに、北里氏は批評家相互のコミュニケーションがうまく機能していないのではないか、ということも言っていた。そういう意味では、今日のこの集まりがちょっとしたテンションの高さのうちにあったことが、何事かを語っているようにも思う。

評論家にとってそうであるように、音楽家とて相互のコミュニケーションがとれているとはあまり思えない。都会ではそれぞれがあまりにも忙しい。他人の演奏を聴くことはあまりないのが現実だろう。そんな思いもあって『くりくら音楽会』を主催企画しているということもある私だが。

とにかく、私にとっては音も言葉も大切だ。だから、このwebの『洗面器』も今年から文体も変えて、書く内容も大幅に方向転換しようかとも考えた。が、どうもそうはいかないらしい。

ということで、すみましぇん、もうしばらくこんな感じで続けていくことになると思います。こんな私でよかったら、どうぞこれからもお付き合いくださいますよう。って、何故か演歌調で締めくくってみたりして。

あ、北里氏にはこれまで書き溜めてきている「声」のことをまとめた本を出して欲しい。香西かおり、石川さゆり、ちあきなおみ、中島みゆき、・・・から巻上公一、ローレン・ニュートン、フィル・ミントン・・・に至るまで、書けるのは彼しかいないだろうと思う。


1月20日(日)  気軽に

お酒を飲みながら、気軽にクラシック音楽を聴くことができるライヴハウスが都内にはあるらしい。サイトを眺めると、「セッション」というものもあるようだ。ピアノ伴奏にお金はとりません、と書いてある。へえ〜、“のだめ”な人たちが集まっているのだろうか。

という店に、生徒の一人が友人と出演するそうで、猛練習中の様子。ブゾーニ編曲のJ.Sバッハ「シャコンヌ」が、レッスン前に聞こえてくる。ショパンはやっぱり難しいと言う。連弾曲が楽しいとも。がむばれ〜。


1月21日(月)  衣装をまとって

午後、松田美緒(vo)さんと大阪での仕事の打ち合わせ。このパフォーマンスで、私はピアノを弾くのみならず、なにやら衣装を着て、その辺を歩き回ったりもするらしい。えらいこっちゃ。そんなことは小学生の頃に地元の子供服の小さなファッションショーのようなものに出た時以来のことだ。痩せなきゃ。

夕飯はシンガポール料理をいっしょに。よく食べ、よく話した。いろんな意味で、美緒ちゃんは分岐点に立っている気がする。って、まったく余計なお世話。


1月23日(水)  鍋つつき

午後、喜多直毅(vl)さんとレコーディングのための打ち合わせとリハーサル。おおよその選曲と全体の方向を話し合い、練習する。喜多さん、今年から演奏前にはアルコール飲料を飲まないことにしているらしく。終了後、味噌仕立ての鍋をつつき、盃を交わし、またあれこれ話をする。いと楽し。


1月24日(木)  吐くのが大事

午後、太極拳の教室。「五功」の中に“無極椿”といって、ちょっと膝を曲げて立っているだけの姿勢を保つものがあるのだが、その時の呼吸の大切さを学ぶ。息を吸う時は頭のてっぺんから身体の中へ引き込む感じ。息を吐く時は足の裏から上へ持ち上げていく感じ。ということで、これまでの自分の意識は間違っていたことに気付く。

そして、耳を患って、西洋の医者に行って毎日毎日純粋な酸素を頭に送るような治療を試みた後、鍼を百本打つ先生のところに初めて行った時、「もっと吐かなきゃだめだ」とすぐに指摘されたことを思い出した。実際、いい酸素を思いっきり吸うことにしか意識がいっていなかったので、見事に指摘されたことになる。鍼の先生は人の身体を観てすぐにわかるんだろうなあ。

夜はトリオ(太田惠資(vl)さん、翠川敬基(cello)さん)で演奏。おおむねいつも午後6時半には店に入る約束をしているのだが、私と翠川さんがちょうど下の道で出会って、いっしょに店に入ったら、をを、そこには既に太田さんが譜面を前に練習している御姿が。思わず、雪でも降ってくるのではないかと思い、閉めた扉を開けてみたりする。

選曲はちょいと初心に戻って。今年、なんとかトリオの二枚目のCDを出したい。


1月25日(金)  カンボジアは

午後、喜多直毅(vl)さん、北村聡(bandneon)さんとリハーサル。ものすごくサウンドがいいと感じる。音を合わせていると、ちょっとぞくぞくする感じ。「何か」がある。こんな若い人たちといっしょに演奏できる機会を持てている自分を幸せに思う。

終了後、カンボジア料理へ。なにやら店の規則が厳しい。3人で席に座ったら、最低4品は頼まなくてはいけないらしく、さらに1品は二人前になっているらしい?ビールが空くと、間髪入れずに店員がオーダーにやってくる。カンボジア人にはこういう気質があるのだろうか?

『くりくら音楽会』のチラシができてきたので、ちょっとレトロな原宿・まい泉で食事をした後、月光茶房に寄り、チラシを置かせていただく。

あ、これから各所にばらまきます。諸所の事情により、デザインは大きく変わっていませんが、今回は水色でポップな春らしい感じになっています。裏面は少し変えました。どうぞお手にとってご覧くださいますよう。そして、ぜひ足をお運びくださいませ。


1月26日(土)  チョコレートで

チェルノブイリ連帯基金が主催するコンサートで演奏。ちょいと早いけれど、“バレンタインコンサート”と題されたもので、著書『がんばらない』などを書いている鎌田實さんの講演と、坂田明(as,cl)ヤッホー!(バカボン鈴木(b)、坂田学(ds))のコンサートという催し。さらに、開場時間から開演時間までを、永六輔さんが巧みな話術でお話をされ、会場の雰囲気を柔らかくされていた。

今回のコンサートではチョコレートが販売されていて、その売り上げはそのままイラクの子供たちへの医薬品の援助になると聞いている。(詳しくはこちらへ

さらに、「がんばらないレーベル」からの第二弾CD『おむすび』も発売された。ジャケットがなんともいい。帯に海苔が付いている。あろうことか、このCDの中で私は歌っていたりする。この曲を歌うことになろうとは夢にも思っていなかった。(CD『おむすび』の詳細はこちらへ/なお、入手ご希望の方はお気軽にご連絡くださいませ)


1月27日(日)  暗い

吉祥寺マンダラ2にて、「キキオン」というユニットのCD発売ライヴの前座で、喜多直毅(vl)さん、北村聡(bandneon)さんと演奏。立ち位置の関係か、幾分緊張していたのか、ピアノのピッチは441で、バンドネオンのピッチが442だったためか、リハーサルで感じたあの感触が薄い感じがしたが、このトリオ、面白いと思う。

曲が暗い。演奏が暗い。んで、何が悪いっちゅうの?

喜多さん、北村さん、それぞれが抱えているタンゴ・スピリッツのようなものが、色濃く反映されているサウンド。私もほんのちょっぴりかじっているかも〜状態が、多分リンクしている。そして、その暗さが突き抜けて、人が生きている、存在そのものの深さへ降り立っていくような、そんなベクトルや力を持つような音楽への可能性を感じる。

喜多さんはあれこれやって自分がいるべき場所にちょっと戻って来た感じがする。それはタンゴという音楽に戻ったということではなく、タンゴに出会って生きてきた自分自身に向き合い、その自分から音楽を汲み上げるところに立っているという感じだろうか。これで彼独特のアンチ精神のようなものが相対化されれば、足元はもっとかたまる。

北村さんは普段は譜面にバッチリ書かれたものしか演奏していないそうだが、すました顔をしながらも、ずいぶん勝手に即興演奏をしている。これで呼吸が深くなって蛇腹がのたうちまわり、共演者に風や光を送れるようになれば、そしてタンゴ以外の、様々なサウンドやノイズを自分の身体が抱え、バンドネオンという楽器の可能性を広げる意識を持てば、もっとすごくなる。

なんて、これまたまったく余計なお世話。口うるさい小姑のようではないの。

キキオンの音楽の表れはユーロトラッド風。その言葉(作詞)が面白いと感じる。ただ、ライヴだと言葉が聴き取りにくかったのを残念に思う。音楽はいたってシンプルなので、聴いている方はどうしても言葉を追う。でもって、ちょっと聴き取りにくい言葉をつかもうと脳は働く。やがてちょいと疲れてくる。そうすると、なんとなく音楽はふわふわと漂っている感じになってくる。

でもって、いい意味でのローテクの系譜というのはあるのだなあと、なんだか20年前くらいに、このマンダラ2で聴いた「時々自動」や「ルナパーク・アンサンブル」の演奏を思い出してしまった。

というより、私にはマンダラという店はちょっと特別なのだろう。どうしても死んでしまった篠田昌巳(sax)さんを思い出してしまう。そして、「機械じかけのブレヒト」のユニットのことも。

終演後、お店で軽く打ち上げ。その後、珍しく自ら誘って若い二人と居酒屋へ。再たこの三人でやろうとちょいと盛り上がる。私はかろうじて最終の中央線に乗って帰途についたが、お二人はタクシーでご帰還。


1月28日(月)  隠れハンドボーラー

驚いた。これまで超マイナーな道を歩み続けてきたハンドボールというスポーツが、昼間のワイドショーの時間にも採り上げられているではないの。男子チームに一人イケメンがいるのも、このブームの要因になっているらしいが、男子の韓国戦は入場券6000枚が発売開始40分で売り切れたという。ほんまかいなあ。とにかく、日本ハンドボール史上、こんなに盛り上がったことはかつてない。

しかし、いつから日本人はハンドボールが好きになったのだ?と思うと、ま、これもほんの一時的なことだろうと思わざるを得ない。それにしても、何故サッカーと同じようにユニフォームは青色なんだろう?

かくいう私も、世に言うところの隠れハンドボーラー。中学・高校時代にはハンドボール部で活動していた。国体の選手にも選ばれた人がキャプテンだったから、高校三年生の時には関東大会にも出場した。しっかし、あんな風に走ったり、跳んだりころがったりしながらシュートを打っていた自分がいたことが、今となっては信じられない。もうできまへん。

当時は、星飛雄馬の養成ギプスではないが、ゴムチューブを手すりにひっかけて、それを引っ張ったりして身体を鍛えた。コーチからは怒鳴られ、ボールをぶつけられ、校庭の砂を投げられた。武者小路実篤邸がある辺りは急な坂道になっていて、そこを何本もダッシュしたりした。ああ、青春。

しかしながら、今回の盛り上がり方の底には、なによりも「中東の笛」なる問題があるわけで、そういう意味ではきわめて政治的な問題を抱えていることは押さえておかなければならない。

ともあれ、以来、今に至るまで、この私は超マイナーな道をずっと歩き続けていることになる。えへん。なのだから、ハンドボールはマイナーでいいのら〜。


1月29日(火)  くらりねっと

午後、小森慶子(cl)さんと練習。自分たちのペースでゆっくりクラシック音楽にも親しんでいくことにした。この丁寧な積み重ねは必ず自分たちの、またそれぞれの音楽に反映されると思う。いろんなことも話しができて、実に楽しかった。


1月30日(水)  動く富樫さん

左上奥にあった親知らずを抜いた。口の中がなんとなく血の味で満たされている気がする。

男子のハンドボールの韓国戦を観ていたのだが、どうも負けそうだなあと思って、チャンネルを変えたりしてみたら、映画『さらばモスクワ愚連隊』が始まるところだった。この映画は1968年に作られたジャズの映画で、主演は加山雄三。ジャズは娯楽音楽ではなく芸術音楽だとか、あれやこれやの理屈が満載だったが。

で、驚いた。そこに両足で立っている、ドラマーの富樫雅彦さんが動いていたからだ。おまけにセリフまでちゃんとあるではないの。でもって、カウント出してドラムスを叩き始めて・・・ひゃあああ〜っ、めっちゃくちゃ格好良い〜!こと、このうえなく。すごいドラミングだった。あれは、モテル。


1月31日(木)  ウード

午後、カルメンマキ(vo)さん、太田惠資(vl)さんとリハーサル。マキさんとは初めてお会いする。本番が楽しみ。

夜は“アラビンディア”のライヴを聴く。ウードの音はどんなに聴いていても飽きない感じがする。その音の響きは何かとても遠くて近い世界へ私を誘う。例えば、義太夫における太棹、琵琶、三味線、筝の十七弦などと同質のものを感じる。身体の中の何かが震えるのだ。

アラビンディア、すなわち常見祐二(uod)さん、太田惠資(vl)さん、吉見征樹(tabla)さん、三人が奏でる今宵の音楽はすばらしかった。

アラブ音楽にもいろいろな決まりごとがあるようだった。暗黙の約束事や駆け引き、あるいはトナリティやマカーム(旋法のようなもの)などの音楽的なことも含めて、ある枠組みの中で実に自由に楽しく遊んでいる感じが伝わってきた。決して悪い意味ではなく、形式化されたジャズと似た妙味のようなものがあるように感じられた。




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